2013/09/27

告知いろいろ

 寝ちがえは無事完治した。
 その後もいろいろ調べてみたら、首用のコルセットがいいみたいですね。

 内堀弘著『古本の時間』(晶文社)、広瀬洋一著『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』(本の雑誌社)を読了。素晴らしい。月末の仕事が一段落したら、じっくり紹介したいとおもっています。

 紀伊國屋書店『scripta』で連載の「中年の本棚」は、吉田豪著『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店)と大槻ケンヂ著『40代、職業・ロックミュージシャン』(アスキー新書)などを取り上げました。

 それから今年もメリーゴーランド京都の「小さな古本市」に参加します。
 10月13日(日)、14日(祝・月)です。最近、京都に行ってないので、なんとか期間中に遊びにいけたらと計画中。15日(火)は徳正寺でオクノ修のライブ(ゲスト/牧野伊三夫)もあるし。これ、見たいなあ。

 あと来月、Pippoのポエトリーカフェの入門篇《テーマ“酒(日本篇)”パート2!》にゲストで出ることになりました。
 10月27日(日) 19:00〜 定員15名。場所は高円寺のペリカン時代です。
(現在受付中)

 このあいだ、ポエカフェがもうすぐ五十回になると聞いて驚きました。すっかり忘れていたのですが、Pippoさんがこの会をはじめたばかりのころ、わたしは「百回まで続けろ」といったらしいのです。
 それにしても五十回はすごい。ペースもテンションもまったく落ちてないところがすごい。前回の入門篇のときも、当日、いきなり資料の束を渡されて、呆然とした。酒の詩がテーマで李白、杜甫からスタートだからね。どう考えても終わるわけがない。今回はその続きというか、日本の酒の詩の話をします。

 詩の小さな勉強会 Pippoのポエトリーカフェ http://pippo-t.jp/newpage33.html

2013/09/20

読書の工夫

 寝ちがえ、三日目。

 床に落ちているものを拾ったり、ペットボトルの清涼飲料水を飲んだりする動作はまだむずかしい。それでも痛みが治まっただけでも、かなり前進した気分である。一日前までは、座っている姿勢から横になることさえ、難渋していた。
 安静中、新刊(!)の小林秀雄著『読書について』(中央公論新社)を読んだ。
 ブログの「文壇高円寺」の前身にあたる線引き屋ホームページ版の「文壇高円寺」の第一回目で、わたしは小林秀雄のことを書いた。
 当時のわたしの関心は「批評の神様」ではなく、江藤淳に「“白樺派”的直情」と評されるような小林秀雄だった。

『読書について』所収の「読書の工夫」で、小林秀雄はこんなことを書いている。

《よく結婚前には、文学書が好きで、よく読んだものだが、結婚して了うとそんな暇もないし、又小説なぞ読んでいるのも馬鹿々々しくなる、という事を聞く。小説に限らない。一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、年をとっても持ち続けている人はまことに少い。本を読む暇がなくなったという見易いことには誰でも気が付くが、本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、なかなか気が付かぬ。又、気が付き度がらぬ》

 ようするに、読書熱が衰えるのは、「読書の工夫」が足りないということに尽きる。

 では、「読書の工夫」とは何か。それはここでは書かない。

 ここ数年、読書熱が衰えているなあと痛感する。せっかく神保町に出かけたのに、神田伯剌西爾でコーヒーを飲んで、新刊書店の平台をさっと見て、古本屋に寄らずに家に帰ることもある。

 活字がまったく頭に入ってこない。文章がちっとも心にしみてこない。そういうこともよくある。
 散歩をしたり、瞑想したり、いろいろ試してみたが、だめなときはだめだ。
 ただ、そういうときに小林秀雄に戻る。小林秀雄からやり直したくなる。「読書の工夫」にかぎらず、今の自分に足りないもの、欠けているものに気づかされる。

『読書について』の中で、わたしのいちばん好きなエッセイは「喋ることと書くこと」だ。文字がなかったころ、印刷技術がなかったころ——の知識人はどうしていたか。そんなところにまで話が及ぶ。思索のスケールが大きい。

 そこから散文の力について論じる。

《優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います》

 認識や自覚が弱ってくると、散文は楽しめなくなる。散文を味わうためにも「読書の工夫」がいる。

 それを知りたい人はこの本を読むことをおすすめしたい。

2013/09/19

振り向かない男

 火曜日に寝ちがえてしまい、首がまわらない。過去にも何度かやっているが、今回はこれまでの寝ちがえでいちばんきつい。何がつらいといって寝るに寝れないのがつらい。仰向けになると、ひとりで起きられなくなるので、横向きに寝る。

 無駄な抵抗はせず、痛み止めの薬を飲み、鎮痛消炎剤を塗る。腰痛のときと同じで、初日は安静しかない。
 水曜日はすこしマシになったが、それでもちょっとしたものを持つのにも不自由する。

 日常に支障をきたさないていどにからだが動くまでにはだいたい三日かかる。日にち薬とはよくいったものだ。完治はもうすこしかかるかもしれないが、「三日のガマン」でどうにかなるとおもえることが、養生中の心の支えになる。

 インターネットで検索したら寝ちがえの治療法がいろいろ出ていたので、いくつか試してみた。その中に片方の手のひらを頭の上に乗せ、その甲をもう片方の手(ゲンコツ)で軽く叩くというのが紹介されていた。
 すこしずつ頭の上に乗せた手の位置をズラして、トントンと叩いていくと、気持のいい場所がある。そこを叩いて、しばらくすると、痛みが軽減し(たような気がする)、首もすこし動くようになった。
 おかげでこうやって文章も書けるようになった。

 誰にでも効果があるのかどうかはわからん。

2013/09/17

みちくさ市

 日曜日はみちくさ市。雨で古本フリマは延期。午後から中嶋大介さんとのトークショー。無事終了と書きたいところだが、途中、まったく喋れなくなったりした。人前で喋るのむずかしい。

 大阪にいたころ、中嶋さんはデザインの会社で働きながら、インターネットの古本屋をはじめた。でもすぐそこでお金のためだけにやっているだけでは、おもしろくないと“アホアホ本”の紹介をするようになる。

 おもいついてすぐ動いてしかも形にする。おもしろいかどうかだけで、何かをする。
 前から、すごいなとおもっているのだが、本人が飄々としていて、なんとなく、ただ遊んでいるようにしか見えない。

 いか文庫の話はもうすこし聞きたかったのだけど、「エア書店」という発想は、読んで字のごとく、つかみどころがない。でもその曖昧さやあやふやさをプラスに考えているところが斬新だとおもう。

 おもいだした。
 最近、中嶋さんから興味があることを聞かれて、完全にフリーズしてしまったのだ。スノーデンのことはまったく知らなかった。あと野球の話になって考えていたことが飛んだ。バレンティンのことからブラジル出身のユウイチの話をしてしまった。

 打ち上げは、退屈君の新居に行く。けっこう広い。みんなで「モヤモヤさまぁ〜ず」を観る。ポポタムが紹介され、大林さんと武藤さんがテレビに出ていた。番組が終わった途端、急に睡魔におそわれ、家に帰る。

 バレンティンが五十六号、五十七号の二打席連続でホームランを打っていた。

2013/09/16

戸越銀座(二)

『銭湯の女神』(文春文庫)以降、星野さんのエッセイは「自由」あるいは「フリー」であることにたいする矜持とやせ我慢が、たびたび綴られている。
 大義名分やら長いものに巻かろというような世間知との戦いに明け暮れている人という(勝手な)印象があった。

 前回、「思想の転換」という言葉をつかったのは、その印象の鮮烈さがあったからだ。でも「転換」というより、四十歳前後の星野さんは、自分の弱さを見つめなおす作業をしていたともいえる。

『島へ免許を取りに行く』(集英社)では、「何かまったく新しいことに挑んで、余計なことをくよくよ考える暇もないほど疲れたい」「抽象的な目標ではなく、手が届かなそうで届きそうな、具体的な目標が欲しい」と書いていた。

『戸越銀座でつかまえて』では、抽象的な目標のひとつの「割と自由な生き方」ではなく、迷い、悩むことも含めた「難儀な自由」の問題に踏み込んでいる。

「もう無理だ。
 逃げよう」

 星野さんの半生を考えると、この二行が書くのに、ものすごく躊躇があったのではないか。

 わたしは、四十歳前後あたりから、ずっと停滞感をおぼえつつ、自分のこれまでの生き方を変える勇気を持てずにいる。
 勇気もそうだが、逃げる場所もない——。

『銭湯の女神』で、風呂のある実家の一軒家から、陽の当たらない風呂なしアパートに引っ越したさい、「何かを手に入れるためには何かを手放さなければならない」という考えに至る。
 でも実家には、数百円の電車賃で帰ることができる。ほぼ一回分の銭湯の値段で。
 その後、母から「あんたがふらふらしていられるのは、実家があるから。仕事を選んでいられるのも、風呂なしアパートで我慢していられるのも、すぐに帰れる実家があるから。何もなかったら、もっと死に物狂いのはずだよ」といわれる。

 このせりふは『銭湯の女神』の「エセ貧乏」に出てくる。

《故郷に錦を飾る必要もなければ、稼いで家族を扶養する必要もない、いい仕事をして無理解な親を見返す必要もない。時には創作や表現の原動力になるハンディが、私には何もない》

 だから不自由が欲しいとおもう。東京生まれの星野さんのこの言葉はすごく新鮮だった。

(……続く)

戸越銀座(一)

 今、自分は何が読みたいか。どんな文章が好きか。そのふたつの質問に答えるとすれば、星野博美さんのエッセイということになる。

『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)が出るまで、『銭湯の女神』、『のりたまと煙突』(いずれも文春文庫)、『迷子の自由』(朝日新聞社)を読み返していた。

 わたしも散文——エッセイを書く。そのとき自分の日常および条件からなるべく離れず、「等身大の自分」の視点で書こうと心がけている。それはおもっているほど簡単ではない。

 現実の「等身大の自分」は、浮き沈みが激しく、かなりぶれる。気が大きくなったり、小さくなったりもする。
 そのぶれをそのまま表出すると、支離滅裂になりかねない。
 だから書き手としての「自分」らしきものを作りこむ。そこには当然ウソがまじる。

 星野さんの文章もすべてが「等身大の自分」によって書かれているわけではない。しかしギリギリまでフィクションの部分を削ぎ落としている。そうかんじる。
          *
 すこし前に戸越銀座出身の東京ローカル・ホンクの木下弦二さんと星野博美さんが、同じ小学校の学年ちがいということを知った。
 遠回りしながら、答えを見つけようとする姿勢は、星野博美さんの新刊の『戸越銀座でつかまえて』(朝日新聞出版)を読んでいたときにもおもった。

『戸越銀座でつかまえて』は二〇〇八年から二〇〇九年までの週刊誌の連載が元になっているのだけど、単行本化までに四年かかっている。
 当然、単なる加筆ではなく、そのあいだに「思想の転換」といっていいくらいの大きな変化がある。

 就職を機に引っ越した中央線沿線の気ままな暮らしに区切りをつけ、実家のある戸越銀座に帰る。
 地方出身の上京者とはまたちがった「挫折」の形。星野さんは、連載時にはそれを言葉に落とし込むことができなかった。そのことが書けない以上、本の形にはできないと考えた。
 それが単行本化までに時間がかかった理由のひとつだろう。

 星野さんはフリーランスの写真家、ライターという職業についた。

《私にはいまでも、この職業を選んだという自覚があまりない。あるのは、割と自由な生き方を選んだのかも知れない、という自覚だけだ。守りたいと思うのはそんな生き方のほうであり、職業ではない。自分のやり方が守れるなら、生計を立てる方法は何でもかまわないと、いまでも思っている》

《私はフリーになりたかった。それも下請けを意味するフリーではなく、本来のフリーだ》

《これを決めた時点で、安定、予定、目標という選択肢を捨てざるを得なかった》

 まえがきに付けられた副題は「自由からの逃走」。
 わたしにとっても他人事ではなく、身につまされながら読む。

(……続く)

ジロキチで

 土曜日、高円寺ジロキチで東京ローカル・ホンクとパイレーツ・カヌーのライブを見る。
 パイレーツ・カヌーは京都のバンドで、演奏のすごさに遊びの部分がくわわって、ライブバンドとして見て楽しめる要素がさらに増しているかんじがした。
 洗練された音楽とMCのぎこちなさも魅力がある。

 東京ローカル・ホンクは、木下弦二さんがソロで歌っていた「夜明けまえ」をギター+アカペラバージョンで披露する。ライブの中盤くらだったにもかかわらず、拍手がなりやまない。

「昼休み」以降、聴いたあともずっと考えさせられる曲が増えた。ある種の疲れやもどかしさを琴線にふれるように、しかもシリアスになりすぎずに表現している。

 アンコールは二組のセッションで、スティービー・ワンダーとクラプトン。それぞれのドラマーの東西クワイエット・ロックロール対決もおもしろかった。ツインドラムなのにお互いに音を出さないことを張りあっている。

 二十代から四十代にかけて、うずまき〜ホンクのライブを見続けてきているのだけど、その時間そのものが自分にとって、大きな財産のようにおもえる。ひとつのバンドの成長や成熟の現場に立ちあえている喜びというものは、知らず知らずのうちに、自分が行き詰まったときのヒントや打開策を教えられていたりする。
 遠回りしながら、答えを見つけようとする姿勢とか。

 この日、ほんとうは飲みすぎてはいけない事情があったのだが、午前三時まで飲んでしまう。現在猛省中。

2013/09/12

六平さん

 九月五日の朝、電話があった。わたしの朝寝昼起を知っている友人が午前中に電話をかけてくることはほとんどない。
 ナンバーディスプレイに扉野良人さんの電話番号が表示されて「もしや」とおもった。
 やっぱりそうだった。そのあとすぐ石田千さんからも同じ内容の電話がかかってきた。

 入院中だったことは知っていたし、前の週に見舞いに行った扉野さん、石神井書林の内堀弘さんから容体も聞いていた。

 ちょっと寝ぼけていたが、平静のつもりだった。ところが、その日の記憶はあちこち飛んでいる。
 昔から、悲しいときには、心が痛むのではなく、頭がおかしくなる。

 中川六平さんと会って二十年くらいになる。『思想の科学』の編集者のNさんに紹介してもらった。初対面のとき、六平さんは「おまえ、貧乏そうだなあ。文芸座のもぎりのバイトやらないか」といった。
 バイトの話は断ったが、以来、ときどき高円寺で飲むようになった。「安い飲み屋連れてけ」と呼び出される。夕方タイムサービスで生ビール百円の店に案内したら「ここまで安くなくてもいいんだよ」と文句をいわれた。

『古本暮らし』(晶文社)の打ち合わせと編集作業は古本酒場コクテイルでした。当初は、編集の仕事を手伝えといわれていたのだが、わたしは自分の本を作ってほしいとお願いしたのだ。

「わかった、原稿もってこいよ」

 当時の六平さんは晶文社で微妙な立場だったから、わたしの本はちゃんと企画を通していないとおもう。
 表紙ができ、見本ができても不安だった。もしかしたら出ないんじゃないか。書店に並ぶまでは安心できない。
 二〇〇七年五月、はじめて自分の単行本が書店に並んでいるところを見たときはうれしかった。

 本が出たあと、六平さんにいわれた言葉は「おまえは失うものがないんだから、守りに入るんじゃねえぞ」だった。

 最初の単行本の担当編集者は、書き手にとって大きな存在だ。
 でもわたしは六平さんにお礼をいったことがなかった。けなされ、おごらされてばかりで、感謝の言葉をいう隙を与えてもらえなかった。

 六平さんが最後に編集した本は石神井書林の内堀弘さんの『古本の時間』(晶文社)である。

『古本の時間』の発売日、六平さんはその本が書店に並んでいる写真を見ている。
 夜、眠りついて、そのまま起きてこなかったらしい。

2013/09/02

雑感

 九月、藤井豊さんはまだ仕事部屋にいる。先週はじめから、閖上の仮設住宅の寺子屋の先生をしている工藤博康さんも上京していて、ずっと相部屋状態だった。

 工藤さんは酒が強い。前に東京に来たときも十二時間くらい飲み続けた。最後のほう、わたしは意識が遠のきかけた。

 文学の話をしているときも工藤さんは技術の話ではなく、「なぜ書くのか」という問題に踏みこんでくる。表現にたいして誠実なのである。どちらかといえば、わたしもそういう話をするのは好きなのだが、工藤さんの熱量にはかなわない。

 月末の仕事はどうにか乗りきった。日課の散歩によって、すこし体力がつき、よく眠れるようになったのがいいのかもしれない。
 無理なペースは長続きしない。
 ただ、あまりにも無理をしない生活をしていると、いろいろな能力が退化しそうで怖い。
 ここ数年、そんなことばかり考えている。

 昔、将棋の本を読んでいて、「からだで覚えた将棋」という言葉を知った。
 いわゆる大局観のようなものもそれに含まれる。どんなに頭のいいプロ棋士でも、あらゆる局面を記憶することはできない。さらに未知の局面にしょっちゅう出くわす。時間制限がある中で次の一手が読みきれないとき、プロ棋士のレベルになると、ここでこう指したら「気持がいい/気持がわるい」という感覚があるそうなのだ。

 もちろん「からだで覚えた将棋」の感覚そのものはわからない。将棋の感覚はわからないけど、文章の読み書きなら「気持がいい/気持がわるい」という感覚はそれなりにあるとおもっている。

 何かひとつのことに打ち込んで、身にしみついた感覚はなかなか理屈では説明できない。
 一見どうでもいいようなものの微妙なちがいをかんじとれるかどうか。 
 最近、そうした感覚に頼りすぎると今度は別の何かが衰えるのではないかという気もする。
 ややこしくてむずかしい。

 まとめられそうにないので宿題にする。