月曜日、荻窪・ささま書店。福山市教育委員会(井伏鱒二追悼一周年事業実行委員会)の『井伏鱒二の世界』(一九九四年刊)を買う。限定五〇〇部の内二七号。
二十年くらい前から文学展のパンフをちょこちょこ集めているのだが、これは知らなかった。大判の本を見逃しがちなのは、置き場所がなくて見て見ぬふりをしてた時期が長く続いたからかもしれない。井伏鱒二の字(書)は味わい深い。愛用していた将棋盤や釣り竿の写真も収録されている。
火曜日、神保町で仕事帰り(ひさしぶりに対談のまとめをすることになった)、鳥海書房で伊藤桂一の『釣りの風景』(六興出版)を買う。平凡社ライブラリーの版は持っていたのだが、六興出版のちょっと大きめの新書サイズの随筆集はつい手にとってみたくなる。神田伯剌西爾で読みはじめる。御茶ノ水から総武線の各駅停車で高円寺まで没頭して読んだ。「悲しい釣り」は何度読んでもいい。
《釣りは、ふつう、たのしい遊びだが、沈んだ気分をまぎらすために、釣り場へ出かける人も多いのである。この世で、志を得られないとき、自分で自分を慰める最良の手段として、釣りが残されている。釣りしかないだろう》
伊藤桂一は同郷(三重)の作家で二〇一六年秋に九十九歳で亡くなった。『フライの雑誌』に追悼エッセイを書いたときにも同箇所を引用した。釣りにかぎらず、ひとりでも楽しめる趣味は救いになる。