昨年刊行された本だけど、色川武大著『戦争育ちの放埒病』(幻戯書房)、伊丹十三著『ぼくの伯父さん』(つるとはな)の二冊の単行本未収録エッセイ集は、あらためて編集者のすごみを感じた本だった。読み終えるのがもったいなくて、喫茶店に行ったときにすこしずつ読み継いでいた。
『ぼくの伯父さん』を読み終わって奥付の刊行日の日付を見たら、二〇一七年十二月二十日。伊丹十三が亡くなったのが、一九九七年十二月二十日だから、没後二十年だったことに今更ながら気づく。
すこし前にささま書店に行ったとき、Nさんが高崎俊夫著『祝祭の日々 私の映画アトランダム』(国書刊行会)を(興奮気味に)すすめてきた。わたしが映画をほとんど観ないことを知っているNさんが映画の本をすすめてくるというのはよっぽどのことだ。
『祝祭の日々』は、イーヴリン・ウォーと吉田健一の話からはじまって、映画と本、雑誌、時々ラジオの話が縦横無尽にくりひろげられる。知識と記憶の埋蔵量がすごい。先にちらっと「あとがき」を見たら樽本周馬さんの名前があって「やっぱり」と納得する。
高崎さんは子どものころから映画関係の記事をスクラップしていて、そのまま映画関係の雑誌や本を作る編集者になった。虫明亜呂無著『女の足指と電話機』『ニセ札つかいの手記 武田泰淳異色短篇集』(いずれも中公文庫)、『親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選』(創元推理文庫)なども高崎さんの編著である。
同書の「クラス・マガジン『話の特集』が輝いていた時代」にこんな記述があった。
《私がもっとも熱心に「話の特集」を読んだのは、この一九七〇年代前半の数年間だったと思う。後に『東京のロビンソン・クルーソー』に収録される小林信彦のコラム「世直し風流陣」、虫明亜呂無の『ロマンチック街道』、色川武大の『怪しい来客簿』などの連載も夢中になって読んだ》
わたしは一九九〇年代半ば、休刊直前くらいになってようやく「話の特集」を古本屋で探して読むようになった。当時、映画と音楽好きの同業の友人の河田拓也さんも七〇年代の「話の特集」の話をよくした。
高崎さんの「話の特集」の話ではっとさせられたのが、次の指摘——。
《「話の特集」のエッセンスは、レイアウトを担当した和田誠の傑出した才能に負う部分が大きいこともわかってきた。(中略)いっぽうで、矢崎泰久好みの硬派なジャーナリズム精神は、たとえば、竹中労の「メモ沖縄」「公開書簡」のような連載に体現され、この〈遊び〉と〈反権力志向〉のフシギな共存こそが、一時期の「話の特集」の面白さを支えていたように思う》
〈反権力志向〉の硬派なジャーナリズムというのは、そのまま剥きだしの形で出されても、多くの人に読まれることはむずかしい。文化(遊び)の厚みがないと厳しい。九〇年代以降のリベラル言説の停滞は「〈遊び〉と〈反権力志向〉のフシギな共存」が崩れたこととも無縁ではない。今の硬派ジャーナリズムの世界は、冗談がいえない空気みたいなものが、蔓延していて息苦しい。
話は変わるが、『祝祭の日々 私の映画アトランダム』を読むすこし前にペリカン時代で安田南の話をしていた。この本にも安田南の話が何度か出てきて、よくあることだが、いいタイミングで読めて嬉しかった。