2019/10/23

余生の研究

 五十歳という年齢が近づき、自分の関心が「余生」に移行している。
 このまま東京にいるのか。ずっと賃貸の部屋に住み続けるのか。蔵書をどうするのか。

 働き方や暮らし方も含めて、もうすこし楽な方向に切り替えたい——ということに関しては二十代半ばあたりから考えていたわけだが、そのおもいがより切実になってきた。

 余生や老後のあり方にしても、平均寿命がのびた今と昔ではちがう。自分の考え方も変わってきている。

 若いころ、というか、わりと最近まで老後は田舎の平屋の一軒家に住むのが夢だった。現実問題として都内に平屋を買うのはむずかしいというのもその理由だ。しかし齢をとってから知らない土地に移住するのは楽ではないだろう。
 いっぽう今より狭い部屋になり、駅からの距離が遠くなっても、今まで通り高円寺界隈のアパートの一室に暮らし続けるという選択肢もある。今は仕事があるからいいが、仕事が減ったりなくなったりしたら、当然、東京での賃貸生活は厳しくなる。

 三木卓著『降りたことのない駅』(文和書房)に「夭折の研究」というエッセイがある。

《しかし、同時に年譜を見ていて思うことがある。それは夭折した者のものである。あきらかにそうなる、と思われるような仕事の仕方をしている者がある。量としてみても、この期間では、あきらかにエネルギーや栄養の収支からいっても疲労度からいっても肉体はすかんぴんになって、喰われている、と思われる。また質としてみると、なんとなく、やはりこの人は、大いそぎで自分の仕事を終わらせて死んだんだな、と思わせるものがままあって、ふしぎである》

 このエッセイでは「肉体の収支」という言葉も出てくる。

 余生あるいは老後というものは細やかな自分の肉体における収支計算が必要になってくる。これだけ働いたらこれだけ休む。休めないなら働かない。

 昔からそんなことばかり考えていた気もするが、老いによる体力の低下は体感してみないとわからない。