今年は十月二十三日にコタツ布団を解禁した。コタツ、あたたかい。すでに長袖のヒートテックを着込み、貼るカイロも付けている(カイロは昨年買った分がけっこう残っている)。
土曜日、西部古書会館の初日午前十一時すぎに行くと大盛況——もうすこし空いてからゆっくり本を見ようとおもい、しばらく近所を散歩する。いい本は売れてしまうかもしれないが、それはしょうがない。インターネットの古本屋が普及したおかげで古今東西の様々な書物を入手しやすくなったが、活字を身になじませる時間は減った気がする。
富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)は、わたしの枕頭の書で、気分が晴れぬ日にしょっちゅう読み返す。表題「不参加ぐらし」は自身の暮らしぶりについて「どうにかしようと努める気にもならない」と述べ——。
《それでは発展もなく進歩もなく充実もなくということになるかも知れないが、今更発展しても進歩しても充実しても仕方がない》
齢のせいか、もともとの性格のせいか、わたしもそういう気分によくなる。何かをする時間ではなく、何もしない時間がほしいとよくおもう。最新の流行、新しい価値観を否定する気はないが、できれば距離をとりたいという気持がある。この先の未来をつくるのは自分たちの世代ではない。すこしずつ次の世代のために場所を譲り、なるべく邪魔しないよう、ひっそりと好きなことをして暮らしたい。
《還暦もすぎれば少しは自分およびこの世が判って来るかと若い頃には思っていないでもなかったが、その年になってみると、自分およびこの世が一つ判れば二つ判らないことが出て来る有様で、これでは死ぬまで、自分およびこの世について茫漠とした認識を持ち続けるばかりだなという感じがする》(「憂き世」/『不参加ぐらし』)
還暦はまだ先だが、五十歳をすぎたあたりからわたしもそういう感慨にとらわれるようになった。生きていく上での最低限の適応は心がけるつもりだが、世の移ろいについていこうという気持を失った。それよりもっと大事なことがあるような気がするのだが、それはあくまでも自分の問題で他人にあれこれいうべきことではない。そんな感じで口ごもることが増えた。