批評の公平さについてかんがえてみた。
公平であることは大事だが、批評家の好み、価値観が反映した批評もおもしろいのではないかとおもう。
たとえ標準、平均からズレていたとしても、ある種のおもいいれやおもいこみで強引に読ませてしまう、そんな批評があってもいい。
昔は何らかの思想をもった人が、その思想に合致するか否かによって、作品のよしあしを決めるような偏った批評がけっこうあった。
そのときどきの流行、潮流によっても批評のあり方は変わってくる。
自然主義が盛んだったころは、そうでない作品はきびしく批判されたり、プロレタリア文学の隆盛期には、ブルジョワ文学が否定されたりした。
ただ、そうした批評は、時代の変化とともに効力が失われがちだ。
わたしの場合、時代性よりも、自分の適性、向き不向きに固執する癖がある。
二十代のころ、「自己完結している」とよくいわれた。
その傾向についていえば、たぶん、昔とくらべると、多方面に気をつかいながら文章を書くようになったとおもう。そうしたほうが、摩擦のすくない文章になり、わかりやすく、通りがよくなる。
それがいいことかどうか、いまは判断保留中。
自分が拠って立つ場所を守るために、あえて独断と偏見を貫く。
ただ、その姿勢を貫いたとしても、対立や衝突が起こりにくくなっている。
「あの人はそういう人なんだ」
「そういう意見もあるね」
そんなかんじで受け流されてしまうのである。
若い知り合いの文章を読んでいると、いつもバランスがよくて器用でうまくておどろくのだけど、もうすこし、そこからはみだすもの、空回りするもの、ぎこちないもの、あとで読み返して恥ずかしくなるようなものがあってもいいのではないかという気がする。
(まだ続く……はず)