行きあたりばったりに話をすすめる。
読者の高齢化、インターネットの隆盛などによって、このままいくと出版の世界は確実に崖が待っていると書いた。
すべてが落ちるわけではないとおもうけど、今まで通りの人数、収入を活字産業は維持できないだろう。
銀行が合併したように、大手の新聞や出版社の合併もありうる。中小零細はどうなるか。フリーの人はどうなるか。
もともと活字の世界というのは、趣味と仕事の領域が曖昧だ。
同じような原稿を同じくらいの時間、労力をかけて書いても、原稿料は出版社の規模によってまちまちだし、まったくもらえないこともある。
お金はほしい。でもそれだけではない。
批評の自立のためには、生活費は別に稼ぐ必要があるのではないか。長年、考え続けているが、まだ答えは出ていない。
くりかえしになるけど、「どう生きるべきか」を主体にする、根源に置かないと駄目になるという谷川俊太郎の言葉をおもいだしながら、もうすこし批評について考えたい。
《——ぼくはこの管理された社会の中で、単に労働力として存在する人間にはなりたくない。たとえ人生を棒に振っても、ある純粋さを保持した、あるがままの人間でありたい……》(「頭上に毀れやすいガラス細工があった頃」/辻征夫著『ゴーシュの肖像』)
十代の辻征夫が「それだけでは生活できない」とわかっていながら、詩人になりたいとおもったときの心情だという。
詩人になりたいとおもう辻征夫は「そういうことは趣味として余暇にやれ」といわれる。
批評も詩と似たような境遇になっているのではないか。
かつて中村光夫は、批評家が独立の存在として認められていないと述べた。作家の解説者、読者との仲介人という役割しか与えられていないともいう。
《もし批評する者が、批評される者に従属していたら、それだけで批評の公正さは失われ、したがって価値もなくなるのは自明のことだからです》(「批評の精神」/『批評と創作』新潮社)
ここで「批評の公正さ」という言葉が出てくる。この「公正さ」は「批評家の独立」によってしか得られないというのが、中村光夫の意見である。
趣味あるいは余暇としての批評は、批評される側に従属する必要がない。それは批評の独立といえるのか。
「批評の精神」はこんな一文でしめくくられている。
《自分の存在をかけない言葉が人を動かすはずはないという文学の鉄則は、批評にも適用されるので、この単純な原理を忘れた批評はどんなに「問題意識」にみちていようと、空疎な大言にすぎないのです》
(……続く)