今週末は、鬼子母神通り みちくさ市(http://kmstreet.exblog.jp/)が開催されます。
都丸書店で佐藤春夫著『窓前花』(新潮社、一九六一年刊)を買い、喫茶店で休憩する。読売新聞の夕刊に連載時は「愚者の樂園」という題だったが、すでにつかっている人がいて改題したらしい。
本多顕彰著『聖書 愚者の楽園』(光文社、一九五七年刊)のことではないかとおもう。
後に獅子文六が一九六六年に『愚者の楽園』という本を刊行している。
ウィキペディアによると、川原泉の漫画の題でもあるようだ。
ちょっと息ぬきに読もうとおもって買った『窓前花』だけど、新聞コラムとしての完成度が高い。単行本では一本が見開き二頁ちょうどにおさまる。ほんとうに読みやすい。
《今日のベストセラーズは千萬人が讀み、さうして明日のベストセラーズはまた明日の千萬人が讀む。
今日は二三人しか讀む人もない。多くの人々がみなその存在を忘れてゐる。しかし明日も明後日もほんの二三人の人が讀んでゐる。さうしてその二三人がいつしか二三百人にもなり、やがていつまでも讀みつづけられて讀む人の數が少しづつ増加して行く。これがクラシックといふものであらうか》
内容は文芸から政治まで意外と幅広い。わりとリベラルな理想主義者である。
「窓前花(さうぜんのはな)」という言葉は『佐藤春夫随筆集 白雲去来』(筑摩書房、一九五六年刊)の「處士横議せず」にも出てくる。
新聞の連載では、身辺雑事、文芸放談、時代風俗、政治および社会時評の類をその都度書こうと心がけていたが、どうしても身辺と文芸の話に片寄ってしまう。しかし、みかんの木にみかんがなるようなもので、これは当然の話だとひらきなおる。
《新聞には政治記事は自分の執筆を待つまでもなく充滿してゐる。自分の任とすべきは多忙な社会人が多忙に紛れて忘れてゐる事どもを思ひ出させるにあらう。(中略)自分は處士横議を事とせず、閑雲野鶴を望み、窓前の花を品し、時に兒孫を擁してテレビに野球と相撲とを興ずるを優れりと思ふ者である。それではいけないといはれても外に仕方もあるまい》
そういいながらも『白雲去来』には政治記事が多い。それがまたおもしろい。