批評についてかんがえているあいだ、頭からはなれなかったキーワードが「精神の緊張度」だった。
小説ではなく、むしろ、批評にこそ、「精神の緊張度」は必要なのではないか。
もうひとつ谷川俊太郎の次の言葉——。
《詩人の主体というのかな、どう生きるべきかみたいな、そういうものを根源に置かないとね、どうも詩が駄目だという感じがあるんですよ。いつでもその間を揺れ動いて来たんですね》
あらゆる文学が「精神の緊張度」を高め、「どう生きるべきか」を問うべきだといいたいわけではない。
わたしは肩の力のぬけた、とぼけた文章が好きだし、生々しい現実から逃避したくて本を読むこともある。
おもしろいか、つまらないか。
わかりやすいか、わかりやすくないか。
売れるか、売れないか。
当初、「独創」の有無、あるいは「公平」ということについて考えていたのだけど、しだいに、わたしは優秀な審判のような批評を求めているわけではないことに気づいた。
ある作家のある作品に、自分の理想をたくし、自分のおもいを述べる。
そういう批評のあり方について模索していたこともある。
どう生きるか、何をすべきかということは、重要な問いである。
ただ、もうすこし別の方向、自分の内側ではなく、外側に関心が向かうようになってきた。
二十代、三十代の編集者と会う。書店員と会う。
定年まで会社がもつかわからない。
そんな話をよく聞かされる。
あと何年かしたとき、雑誌はウェブに移行してしまうかもしれない。
雑誌や新聞の読者が高齢化している。その高齢化にあわせていれば、しばらくのあいだはあるていど売り上げは維持できるかもしれない。
ただし、その先、確実に崖が待っている。
崖から落ちないようにするには、どうすればいいのか。
(……話の流れは変わってしまったが、もうすこし続けたい)