批評の役割についておもいついたことを書く。
たとえば、ある作品について、従来とはちがう、読み方、見方を示すこともあげられる。
主人公ではなく、脇役にスポットを当てて読むとどうなるか。スポーツであれば、試合で目立つ活躍した選手だけ縁の下の力持になった選手を評価する。
売れなかった作品、失敗作も、見方次第ではおもしろくなる。
従来の常識やおもいこみをくつがえす、視点をかえる。
それも批評の仕事だろう。
ただ、批評の技術が発達すると、それこそ、どうとでもいえるようになる。名作でもけなせるし、どんな凡作でもほめようとおもえばほめられる。
つまり作品の「独創性」よりも、批評の「独創性」がひとり歩きする。そこで「公平」かどうかということが問われてくる。
もうすこし話をややこしくしよう。
奇をてらった手法も、やりつづけていれば、凡庸になる。凡庸を批判する意見も、くりかえしていけば、凡庸になる。
目新しいところが見られない作品にたいして「古い」と批判した場合、その批判のパターン自体が「古い」と批判されるおそれがある。
つまり、おもしろくても批判でき、つまらなくても批判でき、批判すること自体、批判できる。
批評の技術が進歩し、どうとでもいえるようになると、そういう問題も生じてくる。
批評なんて意味がない。
そういうことにもなりかねない。
今さらとはおもいつつ、「批評とは何か」を考えてみたくなった理由もそこにある。
(……まだ続く)