考えが行き詰まってきたので、中村光夫の『青春と女性』(レグルス文庫)を読むことにする。
すると、こんな文章に出くわした。
《人々は普通青年は人生を知らぬという。だがこういうとき彼等は人生とはまさしく人生を知らぬ人間によって築かれるという大きな事実を忘れている。彼等は結婚するとき、果して結婚生活とは何かを知っているであろうか。まためいめいの職業を選んだとき、彼等は果してその職業が実地にどのようなものか知っていたであろうか》(青春について)
知らないうちに何かを選択したり、決断したりする。青年といわれるような年齢のときは、当り前のようにそうしてきた。
仕事の選ぶのも恋人を選ぶのもたいてい曖昧だ。どんなに突き詰めても、結局、なんとなく、好みに合っていたといった程度の理由しか出てこない。いや、これはわたしのこと。
では「限度の自覚」とは「人生を知る」ことなのか。
前述の文章のあと、次のような言葉が続く。
《青春とは僕等が人生の未知に対して大きな決断を下すべきときであり、その決断がやがて僕等の生涯を支配するものだからである》
若いころの決断に多少は抗ったとしても、なかなか大きな変更はきかない。(うっかり)決断してしまった人生にたいし、どんどん時間を注ぎ込む。その時間が長くなれば長くなるほど、引き返しにくくなる。
未知だった人生は、やがて既知もしくは半知半解くらいになる。何かを習得するための時間や手間にしても、まったく予想のつかないものではなくなる。
毎日が同じことのくりかえしのようにおもえてくる。そのくりかえしにたいする免疫のようなものもできてくる。
「無謀な野心」と「覚悟の自覚」の調和点というのは、ひたむきさを持ちつつ、地道なくりかえしにたいする忍耐を身につけた状態といえるかもしれない。ひたむきさ、と同時に、地道さ、いいかえると、マンネリとおもえることに耐える力がないともの作りは持続しない。
その状態は、意識して作ることができるものなのか。それとも自分では気づかないうちにすぎさってしまうものなのか。
(……まだ続く)