2010/08/10

限度の自覚 その七

 際限なく「限度」をひろげていこうとすれば、いつかは破綻する。あらゆることを犠牲にし、自分の好きなことだけにのめりこめるような人は、そもそもどこかおかしい……のではないか。

 自分はそういう人間ではないとあるとき気づいてしまった。
 今はぱっとしなくても、いろいろな課題をひとつずつクリアーしていけば、どうにかプロのライターとして食っていけるようになるのではないか。
 なんとなく、文章の職人みたいなものになりたいとおもうようになった。
 九〇年代半ばに雑誌の廃刊があいついだのは、かけだしの身にはつらかった。あっという間に仕事がなくなった。

 ひまになったから、どこまでだらだらできるか、その限度を試してみた。怠けていただけ、といってもいい。自堕落方向の「限度」がひろがるにつれ(それはそれでそれなりの快楽があるのです)、さらに「野心」は衰える。

 わたしの「無謀な野心」は空回りしながらどんどんしぼんでいった。しぼんだ野心をもういちどふくらませるのはむずかしい。

《僕等のような凡人の抱く理想は多くの場合その実生活の要求を殺し切る強さはない。芸術や宗教に職業として携わる人々も正直のところ出世もしたいし金もほしいというのが大部分である》(「幸福について Ⅱ」/中村光夫著『青春と女性』)

 こうした理想を中村光夫は「世俗の野心」という。
 わたしにも「世俗の野心」がある。
 すこしは金がないと仕事を続けられない。すこしは偉くならないとずっと不本意な扱いが続き、おもうような仕事ができない。
 しかし「世俗の野心」を充たすための努力も楽ではない。だから、斜に構えて、初手から投げてしまっていたところもある。

 ほんとうは「無謀な野心」をもって、ジタバタしながら、自分の「限度」いっぱいまで突っ走ってみたかった。でもそれができなかったのは、自分の「限度」だったともおもう。

(……しばらく休みます)