2010/12/07

文化の基盤 その二

 仕事が一段落し、十日ぶりくらいに中野ブロードウェイのまんだらけに行く。
 家にずっとこもって文章を書いて、その合間に古本屋に行って、人と会話するのは飲み屋に行ったときだけ。
 わたしはそういう生活がきらいではないのだが、これは不健康なことかもしれない。でも生きていく上で不健康さにたいする耐性は必要だとおもっている。

 鮎川信夫の「文化の基盤」という言葉について、もうすこし考えてみたい。

 彼は「単独者」であることを自分に課していた詩人だ。
 廃虚のような埃の堆積した家で詩を書き、親しい知人の間ですら、その私生活は謎だった。そういう人物が「文化の基盤」の重要性を説いているのである。
 また鮎川信夫は「荒地」の詩人は「相互酷評集団」だったと語っていた。晩年は疎遠になったが、吉本隆明と長期にわたる対談も鮎川信夫の「文化の基盤」につながっていたのではないか。

 詩人にかぎらず、誰とも共有できない(共有しにくい)観念をもち続けることはけっこうしんどい。
 今の時代はインターネットの普及によって、同好の士を見つけることは昔よりは楽になった。簡単に得られるものは簡単に失いやすい。ひとりで考えていると「わかりあえる」「わかりあえない」の境界がどんどん曖昧になってしまう。
 自分の理解が浅いから通じないのか、考えがヘンだから通じないのか、いい方がまぎらわしいから通じないのかも曖昧になる。

「わかりあえない(わかりにくい)」ものを通じさせたいとおもうと、まわりくどいいい方になりがちだし、共感と同じかそれ以上に反発や黙殺がある。

 たとえ無理解(自分の無力さに起因するところもふくむ)にさらされても「文化の基盤」のようなものがあれば、気持を立て直しやすくなるのではないか。

(……続く)