2010/12/11

文化の基盤 その三

 二十代から三十代にかけて、わたしは商業誌の世界では「戦力」になっていなかった。すくなくとも一九九〇年代半ばくらいまでは出版業界は「戦力」にならない若手のフリーライターを食わしていける余裕があったのである。

 一九九〇年後半になると、その余裕がなくなる。ただし、もともと生活レベルが低かったから、不況になったときの落差もあまりなかった。友人のミュージシャンや演劇の関係者にしても、本業に関しては食えないのが当り前という生活だった。不安といえば、不安だったが、日々の楽しさのほうが勝った。

 それまでのわたしはフリーランスは一匹狼でなければならないとおもっていた。体力や才能、向上心、あるいは財力があれば、それも夢ではない。残念ながら、いろいろ足りなかった。人に頭を下げたくないという気持だけはあり余っていたのだが。

 鮎川信夫のいう「文化の基盤」とはニュアンスがちがうが、金があってもなくても楽しくすごせる「場」があるかどうかというのは、生きていく上でかなり大切なことだ。

 四十歳すぎても、いまだにトキワ荘のチューダーパーティー生活に憧れている。というか、銀座で飲んだり、ゴルフに行ったりするより、近所の友人とキャベツをつまみに安酒を飲んでいるほうが、ずっと楽しそうだ。

 自分にとっての「文化の基盤」にあたるものはなにかと考えたときに、三十路前に金がなくて公園や部屋で飲んでいたときの友人や二十代のころいっしょにミニコミ(B4の両面コピー)を作ってた友人のことが頭に浮ぶ。

 そういう「場」にいたおかげで、メジャー志向でもなければ、マイナー路線も極めきれない、しかも標準からもズレている自分の微妙な立ち位置みたいなものがわかった気がする。当時のわたしは自分の考え方が主流になることはないとおもっていたし、多数決になったら一〇〇%勝ち目がないとおもっていた。かといって、少数派あるいは反体制という枠の中に入れば入ったで、共同作業が苦手でやる気のない人間はお荷物になる。   

 自分や自分みたいな人間の受け皿はどこにあるのか。他人に与えてもらうのではなく、自分で作るしかないのか。二十代の十年はそんなことばかり考えていた。

(……続く)