尾崎一雄は、友人や先輩の批評に右往左往してしまう画家のSにたいし「やはり、強情さが必要だと思ふ」といった。この場合の「強情さ」について、もうすこし考えてみる。
わたしはよく道に迷う。地図を見ず、知らない土地でもまっすぐ歩き続けてしまうからだ。いつまで経っても目的地に着かない。同じところを行ったり来たりする。完全に迷っているにもかかわらず、人に聞こうとしない。
今はスマホや携帯電話があるから、道に迷っても……残念ながら、わたしはスマホや携帯を持っていない。しょっちゅう道に迷うくせに。「強情さ」とはちがうかもしれないが、多かれ少なかれ、他人の忠告に耳を傾けない人はすこしズレたところがある。
仕事にしても、自分のやり方で進めてしまい、途中から共同作業になった場合、誰とも合わせられないという経験をずいぶんした。わざとそうやっているのではなく、ついそうなってしまうのだ。まちがっていても、なかなか認めない。そこに「強情」の「強情」たるゆえんがある。
長年、自分の時間をすべて、自分のために使いたいとおもっていた(今だって、できればそうしたい)。ひとりっ子だから、というと、当然、そうではないひとりっ子もいるわけだが、自分がそういう人間になったのは、家庭環境の影響が大きいとおもっている。
学校から帰ってきたら、家ではずっと好きなことができた(あまりにもやりすぎると注意されたが)。そのまま上京して、フリーライターになっても、その習性は変わらない。それが当たり前だとおもっていた。
画家Sは「自分の仕事を批評されると、それをそのまま受け入れる」。その結果、いつまで経っても自分の作風のようなものを確立できずにいる。こうした批評に右往左往してしまう人は「強情さ」ではなく、「受け流す」感覚を身につけたほうがいいのではないか。
誰にたいしても、きつい言い方をする人がいる。あるいは相手によって言うことや態度がコロコロ変わる人がいる。それはその人の癖だ。その癖を差っ引いて話を聞くようにする。同時通訳の人が、そのまま伝えたら相手が激怒するような言葉を絶妙に言い換える作業に近いかもしれない。面倒くさかったら、聞いているフリをする。何でもかんでも真に受けないこと。
わたしが尾崎一雄を読みはじめた二十代後半は商業誌の仕事を干され、プータローをしていた。まわりからも説教という名の忠告を受けた。
当然のように無視を決めこんでいたのだが、「自分がやりたいことだけでなく、相手にもプラスになるような仕事のやり方もおぼえたほうがいいよ」という言葉には考えさせられた。ただし、そのやり方はわからなかった。
(……続く)