一ト月ほど前、鮎川信夫のコラムを再読して、次の箇所を引用した。
《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ》
このブログを書いたあと、ひさしぶりに野坂昭如の雑文を読み返したいとおもっていたところ、野坂昭如著、坪内祐三編『俺の遺言 幻の「週刊文春」世紀末コラム』(文春文庫)が刊行された。わたしはコラムやエッセイは一気に読むのだが、この本はもったいなくて、外出したとき、電車と喫茶店で数十頁ずつ読んでいる。だからまだ読了していない。
野坂昭如の『週刊文春』でコラムを連載していた一九九〇年代後半、わたしは商業誌の仕事を干されて、社会どころか同時代にたいする関心を失っていた。野坂昭如の本は古本で七〇年〜八〇年代のものはちょくちょく買っていたのだが、九〇年代の文章はほとんど知らない。坪内さんの「編者解説」によれば、二〇〇二年の『文壇』まで「野坂さんは二〇世紀末にスランプがあった」とある。
《当節、見るもの聞くもの、すべてが怪態くそ悪い、年寄りのひがみ、そねみ、ねたみと判っているが、もともとぼくの雑文は、この三つの「み」が基本となっている、ほぼ同年代の、石原、開高、大江が小説家として脚光を浴びていた第一次安保の頃、ぼくは新宿文化演芸場で漫才をやっていた、ラジオ、TV、CMソング作詞にうんざりしての宗旨変え、三つの「み」は当然で、それは才能がないせいなのだが、やはり芥川、直木賞発表の時期、悪酔いする》(「連載三百回を機にふり返る、わが雑文遍歴」一九九五年十二月七日)
このコラムに続く「司馬さんは『国民作家』なんてありふれた存在ではなかった」(一九九六年二月二十九日)では、九四年六月、神吉拓郎、九四年七月、吉行淳之介、九五年八月、山口瞳、九六年一月、結城昌治、九六年二月、司馬遼太郎……と野坂昭如と同時代(やや年上)の作家の死について綴っている。
九〇年代半ば、戦中派の人たちの訃報が続いた。記憶が甦る。クロニクルと回想がいりまじる雑文らしい雑文だ。