以前、このブログで中村光夫著『文学回想 憂しと見し世』(中公文庫)所収の文章を引用した。
《いまから考えると、よくあんな生活に堪えられたものですが、その当時はだんだん馴らされたせいか、むしろそれが当たり前のように思っていました。
それも勝つために乏しさに堪えるという積極的な気持でなく、なんとなく生活とはこんなものという感じで、自由とか豊富などという言葉は、現実性のない死語のようでした。
そのくせ一杯の酒、一椀の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体が囚人の集団に似てきました》(「窮乏のなかで」/同書)
戦時下の窮乏生活を送るうちに、やる気をなくし、「怠ける算段」ばかりするようになる。言論の自由もない。戦争は負けそうだ。どうにもなりそうにないから、できるだけ何もしない「努力」をする。つまり、無気力になるのも「学習」の成果なのだ。
心理学用語の「学習性無力感(無気力)」の典型例といってもいい。長期にわたってストレスを回避できない環境に置かれると、その状況を改善するために行動する気力を失う。人にかぎらず、動物もそうだ(電気ショックを与え続ける犬の実験がある)。「何をやっても無駄」とおもうと、何もしたくなくなる。
「学習性無力感」から抜け出すには「何をやっても無駄」とおもわされている自分の状況を把握する必要がある。
希望を持つこと。希望に向けて行動すること。
わたしも二十代のころ、ずっと貧乏でいつも「怠ける算段」ばかりしていた。無気力だった。
いまだに気をぬくとすぐそうなる。