金曜日、夕方、神保町。神田古本まつり。見たこともない「街道本」がたくさんあった。おもしろそうだなとおもう資料は高い。千円以下の本や図録をちょこちょこと買ったのだが、けっこうな量になる。
寺尾紗穂著『彗星の孤独』(スタンド・ブックス)が届く。自分の体験や感覚を通過させ、小さな違和感を踏みとどまりながら思索し、言葉にする。
大学院時代、寺尾さんは川島芳子の論文を執筆中、芳子の残した和歌や詩を収録した『真実の川島芳子』と題した史料集を引用した。
すると「『真実の川島芳子』とあるが、『真実の』などという形容を安易にしている史料を使ってもいいと思っているのか」と指摘される。
《アカデミズムがそのような厳密さを求めることに一理あることはわかったが、それでも一般の人々にとって「真実の」という感覚は「確かにある」よなあ、と思った。そんなもの「とんでもない」と遮断する感覚と、「確かにある」という実感とは果てしなく遠いように思われた》
「厳密さ」とは何か——という問いは、ジャーナリズムの世界でもよく直面する。
わたしは二十四、五歳までノンフィクションの仕事をしていたのだが、いつも「感想を削れ」「印象批評をするな」と怒られた。注意されるたびに、何がいけないのかわからなかった。わたしは高部雨市さんの『異端の笑国 小人プロレスの世界』(現代書館)のような個人の疑問を掘り下げていくノンフィクションが好きだった(今もです)。
「御身」というエッセイを読みながら、二十代のころの困惑をおもいだした。
その後、仕事を干され、アルバイトや古本の転売をしながら、たまに同人誌やメルマガなどに雑文を書く暮らしを送ることになる。そのときどきに書きたいことを書きたいように書くという選択をしたことに悔いはない。結局、それしかできなかった。同人誌に発表した文章をまとめた小冊子を作ったとき、最初に手紙を送ってくれた編集者がスタンド・ブックスの森山裕之さん(当時は『クイック・ジャパン』の編集者)だった。
「楕円の夢」にはこんな言葉があった。
《「社会の役に立たないからなくてもいい」「レベルが低くて中途半端だから価値がない」。こういう硬直した考え方を前に、しなやかに返答し続けるものが、芸術であり文学ではないかとも思う》
「役に立つ/立たない」「レベルが高い/低い」といった価値基準以前に、自分を通して何を表現したいかということのほうが大切なのだ。本人ですらどうしてこんなものを作ってしまうのかわからないところに芸術のおもしろさはあるのではないかという気がする。