マイケル・ルイス著『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳、早川書房)の第七章「アマチュア疫学者」にブラッド・ピット主演の映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の原作者ノーマン・マクリーン(一九〇二−一九九〇)の名が出てきた。
『リバー・ランズ・スルー・イット』は『マクリーンの川』(渡辺利雄訳、集英社文庫、単行本は一九九三年)と『マクリーンの森』(渡辺利雄訳、集英社、一九九四年)として日本でも刊行されている。あと『マクリーンの渓谷 若きスモークジャンパーたちの悲劇』(水上峰雄訳、集英社、一九九七年)という作品もある。一九九〇年代の集英社の海外文学の編集者は素晴らしい本を作った。しかしこの邦題では何の本なのかさっぱりわからないのが残念である。前二作は『リバー・ランズ・スルー・イット』のままで刊行していれば……。
ノーマン・マクリーンは大学で英文学を教え、退官後、七十歳を過ぎて小説を書きはじめる。「リバー・ランズ・スルー・イット」という題は鴨長明の「方丈記」の「ゆく川の流れは絶えずして」にも通じる気がする(自信はない)。
『最悪の予感』で取り上げられているのは「リバラン」ではなく『マクリーンの渓谷(原題は『Young Men and Fire』)』である。一九四九年夏のモンタナ州のマン渓谷の森林火災におけるスモークジャンパー(森林降下消防士)を綴ったノンフィクションでノーマン・マクリーンの遺著でもある。
なぜ森林火災の話が感染症のパンデミックについて書かれたノンフィクションに登場するのか。
山火事の消火と防疫には共通点がある。火災と感染症は拡大する前に抑えたほうがいい。火は小さいうちに消せ(そのほうが楽だ)。今回は失敗したが、後世にこの教訓は伝えねばならない。
『マクリーンの渓谷』にはワグ・ドッジという人物が猛烈な炎に迫られたさい、あらたな火を放ち、難を逃れるエピソードがある(その後、彼の行為は問題になる)。その話を『最悪の予感』は次のように紹介する。
《消防隊員がそんな行動をとった前例はなかったものの、以後、草むら火災の消火活動ではそれが標準的な手段となった。「エスケープ・ファイア(退避火)」と呼ばれる》
『最悪の予感』に登場する退役軍人省の“上級医療顧問”のカーター・メシャーが『マクリーンの渓谷』から得た教訓は「煙が晴れるのを待っていてはいけない。事態が明確に見えてくるころには手遅れになっている」というものだった。
さらに『最悪の予感』の第八章は「マン渓谷にて」という小題で『マクリーンの渓谷』の引用からはじまっている。
最晩年のノーマン・マクリーンが書き残したメッセージは三十年の歳月を経て、新型コロナの最前線で甦る。感染拡大を止める「エスケープ・ファイア」に相当するものは何か——。
『最悪の予感』には、未知の感染症の危機に一早く気づき、その後の予測を立て、最善の対策を提言しようとした人物が何人も登場する。ただし、優れた知見が実施されるためには、さまざまな障害がある。決定権を持つ人のところにその声が届くか否か。
《カーターはよく、二週間後の自分を想像して、その自分にこう問いかけてみる。「きみが知っている未来にもどづくと、二週間前、どんな行動をとっていればよかったと思う?」と》
『最悪の予感』の主要人物にチャリティ・ディーンという保険衛生官がいる。
カーターたちは公衆衛生の専門家を探していて、チャリティの居所を突き止める。チャリティは分厚いバインダーを持って現われ、「六週間前に、ウイルスの重要な特徴をかなり正確に突き止めてあり、それを活かして将来を予測できそうだと伝えた」。
マイケル・ルイスは「もし彼女が全権を握れたら、アジア諸国が採用しているきわめて賢明な戦略の数々をカリフォルニア州に導入するだろう」と綴っている。当時のチャリティは担当を外され、何も手伝うことができない状況にいた。
適材適所というのは、ほんとうに難しい問題だ。