『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」で橋本治が論じた「大勢順応」について、もうすこし考えてみたい。
『失楽園の向こう側』は文庫オリジナルで刊行は二〇〇六年三月。二〇〇〇年から二〇〇三年にかけての『ビッグコミックスペリオール』の連載を大幅加筆したものだ。橋本治は一九四八年三月生まれ、連載開始時、五十二歳だった。
解説は熊田正史さん(京都精華大学教授)が書いている。
《十数年前、私は『ヤングサンデー』というコミック誌の編集をしていた。(中略)つまり、『ヤングサンデー』はコミック誌なのに橋本治が載っているというヘンなコミック誌だったのだ》
学生時代のわたしは『ヤングサンデー』の連載「貧乏は正しい!」(連載時のタイトルは「こう生きるのが正しい」)を毎号愛読していた。同連載中「夏三泊四日の橋本治漬けセミナー」も開催していた。わたしはこのセミナーの第一回(一九九二年)の卒業生である。この合宿に参加した年に大学を中退した。
『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年代はじめの連載で、当時三十歳前後の読者を想定した(連載開始時、わたしも三十歳だった)。
わたしは同書の「みんな『いい人』の社会」を文庫化されてから読んだのだが、そこに書かれている内容を当時理解できていなかったとおもう。
——「人並」には「その先がない」の話はこう続く。
《ゴールが「人並」である以上、自分のやっていることは、「誰でもやっていること」なんだから、そこに「反省」などというものが入る必要はない。だから、モラルというものは低下する》
大学を出て十年前後、ようやく仕事に慣れてきた三十代の読者はどうおもったかわからないが、文庫刊行時二〇〇六年の三十六歳のわたしは週三日のアルバイトをしながら原稿を書いている身だったから自分のことを「人並」とおもえる状況ではなかった。だから他人事として読んでいたのではないか。
《大勢順応が“善”だから、多くの人は大勢に順応する。大勢順応はさらなる大勢順応を呼んで、気がついた時には、そこにストップをかける人間がいなくなる》
この部分にしても昨今のポリコレやキャンセルカルチャーをおもい浮かべる人もいれば、与党の政治家やその支持者のことを指していると考える人もいるだろう。この橋本治の発言は自分の価値観(傾向)に合わせて、好きなように解釈できてしまう。
「大勢順応」は自分の思考や志向や嗜好ではなく、自分の属している集団の価値観、ルールを優先しがちな人に当てはまる。と、わたしは解釈している。保守だろうがリベラルだろうが、集団の価値観に「適応」——「順応」することを“善”と考える人たちがいる。「みんな『いい人』の社会」は「適応」できない人を“悪”として「放逐」する社会でもある。「適応」できない人がいなくなれば、世の中は楽園になる。では、「みんな『いい人』の社会」で「いい人」ではないと認定されてしまった人はどうなるのか。その「いい人」の基準は誰が決めるのか。当然、そういう疑問が出てくる。
(……続く)