午前中、銀行に行ったら店舗の外まで人が並んでいる。スーパーも混んでいた。諦める。自由業でよかったとおもうことの一つは混雑時を避けようとおもえばいくらでも避けれるところだろう。しかし長年、密を避ける生活を送っていると人混や行列にたいする耐性が落ちてくる。コンビニでも二人くらい並んでいると諦め、別の店舗まで足を延ばす。
多くの人が集まる時間や場所をすぐズラそうとする。極力、他人といっしょに行動しない。わたしはそういう生活習慣がしみついてしまっている。
三十代——というか三十歳前後、「大勢順応」しているフリして場数を踏んで経験値を上げよう作戦を考えた。わたしはおとなしそうにおもわれがちなのだが、協調性がまったくない。何でもかんでも自分のペースでやろうとする。要するに、しめきりさえ間に合わせれば、途中経過はどんなやり方をしてもいい——という感覚がどうやっても抜けない。
経験値を上げよう作戦のさい、そこを直そうと考えた。そして無理なことがわかった。
五十二歳の今のわたしが三十代前後の自分に助言するとすれば、「ちゃんと寝ろ」といいたい。昔のわたしはしょっちゅう徹夜し、体調を崩していた。睡眠と休息をとる。それから仕事する。そのほうが仕事も捗る。それがわかったことは大きな収穫だった。
橋本治のいう「能力の獲得」とはちがうかもしれないが、自分の向き不向きや体調管理の大切さなど、失敗から学んだことはいろいろある。だから経験値上げ作戦は無駄ではなかった……とおもっている。
その時代の「一つの価値観」に合うか合わないかの話でいえば、わたしの好きな戦中派の作家たちは十代二十代のときに「支配的な一つの価値体系」が崩壊する瞬間を目の当たりにした。昨日まで正しいとされていたものが一夜にして“悪”になる。とすれば、今日の“善”が明日“悪”に変わったとしても不思議ではない。
「みんな『いい人』の社会」は、自分に非がなく、“悪”は自分の外にある——それが集団になり、個人を排除、追放する。後になって、その個人に何の罪がなかったと判明しても、責任をとる人は誰もいない。それが「独裁者抜きのファシズム」の怖さである。法律も証拠の有無も関係なく、気分で人を裁く。一度動き出してしまうと歯止めが効かなくなる。
「独裁者抜きのファシズム」を止めるにはどうすればいいのか。個人で対処しようとすれば、一対百、一対千、一対万の争いになりかねない。こちらが「一」批判すれば、瞬時に「百」や「千」の反論が返ってくる。
だから個別の戦いはできる限り避け(おそらく気力と体力が持たない)、その構造を解き明かすための地道な作業が必要になる。
二十年以上前に橋本治は青年漫画誌の活字の頁でそういう作業をしていた。
「みんな『いい人』の社会」が「楽園」だとすると「失楽園」は「楽園」を失った世界——「支配的な一つの価値体系」が崩れ、消え去った世界とも解釈できる。
では「失楽園」の「向こう側」に何があるのか。どうすればその「向こう側」に辿り着けるのか。
おそらく「能力の獲得」というテーマも絡んでくるとおもうが、今のわたしはこの話を続ける余裕がない。もうすこし勉強し、体調を整えてから、この続きを書きたい。
(……未完)