2021/12/21

大勢順応 その四

 橋本治の文章を読むと「何か大事なことが書いてある」ということは直感するのだが、真意を理解するまでにけっこう時間差が生じる。五年後十年後あるいはもっと時間がかかることがある。『貧乏は正しい!』シリーズ(小学館文庫)のときもそうだった。
『失楽園の向こう側』は二〇〇〇年から二〇〇三年の連載が元になっていて、「みんな『いい人』の社会」は約二十年前に書かれた批評だが、この五年くらいの社会情勢の変化と照らし合わせることで「独裁者抜きのファシズム」がどういうものか、わたしはなんとなくイメージできるようになった。

 真面目で善良な人々が、弾圧に加担している自覚のないまま、個人を追いつめ、職を奪おうとしたり、その土地に住めなくさせたりする。
 わたしたちは「いい人」である。「いい人」であるわたしたちが不快に感じるものは“悪”である。“悪”を排除することは正しい。その“悪”を擁護する人も“悪”の味方だから追放する。

 戦前戦中は「非国民」という言葉で他人を責めた。自分が「非国民」といわれないためには、誰かを「非国民」と罵るのが手っ取り早い。「非国民」に相当する言葉は時代によって変わってくる。今の欧米(そして日本も)では「差別主義者」や「排外主義者」がそれに当たる。

「独裁者抜きのファシズム」は日本特有のものではない。

 二十世紀末に書かれた時評を今読み返し、あらためてわたしは橋本治のすごさを再確認した。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」に転じる可能性がある。要約すると、そういう論旨になる。しかしこの話は要約してはいけないのかもしれない。
 橋本治がその気になれば、もっとすっきり書くことも不可能ではないだろう。なぜそうしないのか。自分は正しいと信じて疑わない「いい人」は「全体主義者」に転じる怖れがある——そういってしまった瞬間、その「全体主義者」もまた「非国民」や「差別主義者」と同じレッテルに転化してしまうからだ。

 ややこしい問題を簡単に説明する。「みんな『いい人』の社会」は「独裁者抜きのファシズム」である。そうまとめてしまうと「よかった、自分は全体主義者ではないからセーフだ」くらいの納得の仕方で自分には関係ないと安心する。

 ひょっとしたら知らず知らずのうちに「人並」な「いい人」の価値観に染まり、“悪”は自分の外にあるとおもう人間になっているのではないか。そう考えることがこの問題を理解するための糸口になる。

(……続く)