『失楽園の向こう側』の「みんな『いい人』の社会」を読み進めていくと「大勢順応」の例として、企業のリストラと学校のイジメの話が出てくる。「みんな『いい人』」の「いい人」は“悪”を引き受けない人という逆説を含んだ言葉であることがわかってくる。
会社の業績が悪化する。その責任は社長をはじめ会社の上層部にある。しかしリストラの対象になるのは彼らではない。責任者たちは会社を立て直すためにリストラを敢行する。
《リストラとは、“悪化”という下り坂を転がりながら、経営悪化とは無関係な立場にいた人達が、順にクビを切られて行くことになっている。(中略)「君、会社を辞めてくれないか。君の責任じゃないんだが、このままじゃ会社が成り立たないんだ」と言われて、「はい」と言ったら、もうそこまでである。「会社を辞めた人間に対して、会社が責任を持つ必要はない」ということになる。辞めずに居座ったら、いやがらせの嵐がやって来て、辞めずにはいられなくなるのだが、そうなってもしかし、辞める時には必ず、「本人の意志によって」である》
「みんな『いい人』の社会」の「いい人」は“悪”を引き受けない。「イジメの構造」も同じだ。いやがらせをしたり、排除したりする側はそれを“悪”とは考えない。会社を立て直すため、クラスの和を取り戻すため——くらいの気持なのだ。
「人並」を達成した「いい人」にとって、“悪”は自分の外にある。自分が不快と感じれば、その原因は自分以外の誰かのせいだと考える。
《多くの人が一つの建前を信じて、それに基づいて共同生活をしている中で、ただ一人異を唱える人が出て来ると、その生活共同体の安全が脅かされる——だからこそ、これへの排除が必要になって、「村八分」という制裁も生まれる》
「村八分」に参加している人たちは、当然自分たちのことを“悪”とおもわない。村の安全のために一致団結し、平穏を取り戻そうとしているだけだ。そして排除される人も孤立する人も自分の意志で選んだことにされてしまう。
《日本では、「独裁者によって社会への適合を強制される」という事態があまり起こらない。たとえば、太平洋戦争へと向かう日本的ファシズムの中に、ヒトラーやムッソリーニのように強力な独裁者はない。だから、「誰が悪いのか」が明確に分からない》
橋本治はそうした構造を「独裁者抜きのファシズム」といった。「独裁者抜きのファシズム」という言葉は『失楽園の向こう側』ではなく、同時期に橋本治が書いた他の本に出てくる。
強力な独裁者が国民を同じ方向(価値観)に導くのではなく、国民自らが「大勢順応」し、社会への適合を果たすために努力する。「大勢順応」の努力を怠ったり、異を唱えたりする人を排除する。
「みんな『いい人』の社会」はそういう社会なのである。
(……続く)