橋本治が『ビッグコミックスペリオール』で「失楽園の向こう側」を連載していたころ、『広告批評』に「ああでもなくこうでもなく」という時評を書いていた。その連載は『さらに、ああでもなくこうでもなく』(マドラ出版、二〇〇一年)にまとめられた。同書の「そして二十世紀が終わった」に「独裁者のいないファシズム」という言葉が登場する。
《昭和というのは、「一つの価値観」しか持たない時代だった。支配的な一つの価値体系があって、そこに合致したものと合致しないものとの間には、歴然たる区別があった》
この「支配的な一つの価値体系」が「独裁者抜きのファシズム」を読み解くキーワードになる。戦前戦中の軍国主義の時代には「支配的な一つの価値体系」から外れた者は「非国民」と呼ばれた。戦後の日本の一九七〇年代後半以降、「中流意識」が「支配的な一つの価値体系」になる。
《「支配的な一つの価値体系」は、「価値観の違う他者」の存在を許さない。たとえ譲歩しても、その存在を好まない》
橋本治は「支配的な一つの価値体系」を成り立たせるのは「強制」ではなく「信仰」だと論じている。「中流意識」は「中流」を目指し、「横並びの均等」の実現を願った信仰ともいえる。
《日本的ファシズムの特徴は、「明白なる独裁者が存在しないこと」である。(中略)そこに「統合のシンボル」がありさえすれば、日本人はたやすく、「独裁者抜きのファシズム」を実現させてしまえるらしい》
富国強兵も一億総中流も「支配的な一つの価値体系」への信仰によって支えられてきた。
その後、そして今の「支配的な一つの価値体系」は何なのか。そんなものはもうない——のかもしれない。
ただしいつの時代も自分たちの価値観を「支配的な一つの価値体系」に押し上げようと躍起になっている人たちがいる。「独裁者抜きのファシズム」は「支配的な一つの価値体系」に多くの人が順応することで達成される。
国民一丸となって、国を強くしよう、社会を豊かにしよう、日々刻々と更新されるトレンドを広めよう。違いがあるとすれば、強さや豊かさは世代をこえて理解しやすく、体感しやすいが、日々更新されるトレンドは“情報通”にならないと付いていけないところだろう。一早くトレンドに同調できない人は“悪”だ“時代錯誤”だといわれても、多くの人は戸惑う。だから本人たちがどれだけ自分の正しさを立証しようとしても「支配的な一つの価値体系」になるのはむずかしい。もっとも、わかりやすければいいというものではない。
(……続く)