二十世紀の終わりに橋本治は「みんな『いい人』の社会」や「独裁者抜きのファシズム」について論じていたころ、三十代前半のわたしは仕事や生活が行き詰まり、社会への関心が薄れていた。だから『広告批評』の連載で「そして二十世紀は終わった」を読んだときも「独裁者抜きのファシズム」といった話よりも次の言葉のほうが印象深かった——記憶がある。
《私が「不自由」を感じるのは、自分とは違う他人の価値体系に侵される時である。私は、「自分とはなんだ?」とか、そういう哲学的な悩み方をしたことがない。根本で、自分のことをかけらも疑っていない》
《「根本で確固としている自分を展開するために必要なのは、能力の獲得である」としか思っていない》
「支配的な一つの価値体系」に自分の考え方や感じ方が合わず、「みんな『いい人』の社会」から脱落する。
そうなると何をいっても書いても、落ちこぼれの変わり者がおかしなことをほざいているという状況に陥ってしまう。その状況を打破するにはどうすればいいのか。「大勢順応」しているフリをして、「いい人」そうだけど、ちょっと「ヘンな人」くらいのポジションに身を置くという方法もなくはない。極力、周囲との摩擦を避け、いろいろ制約がある中で自分のやりたいことをやる。あるいは隙間産業に徹する。そうやってすこしずつ信用を積み重ね、交渉力を身につけ、やりたいことができる機会を増やしていく。それも「能力の獲得」の一種だろう。
三十代のわたしはそんなふうに仕事ができるようになることを目指した。
(……続く)