毎日、本を読んだり、文章を書いたりという生活を送っていると、惰性に陥るときがある。けっこう頻繁に。
そういうときは活字にたいする感度が落ちていることがわかる。
新刊書店や古本屋の棚を眺めていても、意識が散漫で、背表紙の題名や著者名が頭にはいってこない。
また長年、本を読み続けてくると、「この作家はだいたいこんなかんじだろう」と漠然と判断できるようになる。
ジャンルや出版社にたいしても、どうしても自分の色眼鏡を通して判断してしまいがちだ。しかし色眼鏡の度数が上がるにつれ、自分には関係ないとおもえる本ばかりになって、だんだん行き詰まってくる。
最初は『禅ゴルフ』も「禅もゴルフも、どっちも興味ないなあ」というかんじだった。
禅に関する万巻の著書を読破した若者が、ある偉大な禅師の元を訪れ、教えを乞うた。
禅師は若者に茶碗を出し、茶をなみなみと注ぐ。さらに注ぐと、茶があふれだした。
《お前の心は、この茶碗と同じようなもので、身勝手な意見や先入観で一杯である。最初に茶碗を空にしないで、何か学べるとでも思っているのか》
冒頭付近で、ペアレント博士は、そんな逸話を紹介する。もしかしたら、どこかで聞いたことがあるような話かもしれない。社長の訓示にもよく出てきそうな話である。
「白紙になれ」云々の説教は、一歩まちがえば、マインドコントロールの手口にもつながる。
いつもならこの手の話が出てくると警戒心を強めるのだが、今回は妙に腑に落ちるものがあった。
さらに博士は次のように述べる。
《取り組む対象が瞑想であろうと、ゴルフあるいはその他のものであろうと、われわれが体験することは、初めはすべて新鮮で啓発的である。何かを始めた当初は、それをすでに達成したという意識は誰も持たない。そのような状態なら、われわれは多くのことを学ぶことができる。しかし、しばらくすると新鮮さが失われてしまう場合がある。すでに何かを悟ったような気になって、やる気が失せることがある。つまり、心の“茶碗”が満たされ始め、何か新しいものを受け入れるスペースが少なくなってしまうのである》
今のわたしの感覚もこの“茶碗”の話と同じかもしれない。
お茶があふれているのではなく、茶碗が欠けてもれだしている可能性もなくはないが、今の自分の低迷の原因は情報過多にあるようにおもえてならない。
四十代以降、のんびりぼーっとする時間が減った。雑務に追われ、日々の生活が細切れになり、なんとなく落ち着かないまま、本を読んだり、資料を調べたりしている。
今の生活を見直したい。
というわけで、『禅ゴルフ』の熟読を続ける。
(……続く)