2012/10/30

内側の技術(五)

 ガルウェイはインナーゲーム理論で「正しいフォーム」に疑問を投げかける。
 つまり、人は自分の内なる欲求(感覚)に従ったほうが、より自分に合った理想にちかい動きになる。逆に頭で批評しながら、からだを動かそうとすると、ぎこちなくなる。
 簡単にいうと、ブルース・リーの「考えるな、感じろ」だ。

 コーチが言葉であれこれ説明したり、手とり足とり指示しなくても、ゲームに集中し、自分の感覚を信頼しながら、からだを動かしたほうが、はるかに上達するのが早い。

 もちろん、こうした考え方がすべての人に当てはまるかどうかはわからない。
 おそらく最初に型を徹底しておぼえることのほうが、自分の欲求に合致している人もいるだろう。
 とにかく「型」を自分のものにさえしてしまえば、こうしようああしようと悩みながらからだを動かさなくてもよくなる。

 自分に適したやり方はどちらなのか。
 いろいろなジャンルでも「型派」と「感覚派」に分かれる。

 料理でも「レシピ重視派」と「レシピ無視派」がいる。

 わたしは、その日の食材とか体調とか気分とか空腹度によって量や味つけを変える。最初は大雑把に作って、最後に味を整える。薄めに作って、後で味を足す。

 料理にかぎらず、たいていのことは感覚(自己流)でやっていて、何かを判断するときの価値基準も、楽とか心地よいとか、そういう感覚を優先する。こうした傾向はちょっとやそっとでは変わらないとおもう。

 インナーゲーム理論とはズレるかもしれないけど、自分の内なる欲求に従う人間というのは、チームプレイや共同作業にはあまり向いていない気がする。

 向き不向きでいえば、わたしは人に何かを教えたり、何かを教わるのも苦手である(まわりからもよくいわれる)。
 何かを習得するときのパターンは「観察(読書)→自己解釈(自問自答)→試行錯誤(工夫)」のみなのだ。

 自分もそうだから、人にたいしても「本人が気づかないかぎり、どうにもならない」とおもいがちだ。

 でも「感覚派」は「感覚派」で、常に自分の感覚に自信を持っているわけではない。
 自信がゆらいだときの修正は「型派」よりも厄介かもしれない。

 自分の内なる声に従ってやってきたのに、ある日突然、おもうようにできなくなる。
 急に「自己流でやってきたツケか」と反省する。
 反省しはじめると、どんどん堂々めぐりに陥って、「あれ、おかしい、こんなはずでは」と、それまで何も考えずにできたことすらできなくなる。

 この状態から脱け出す方法は「いや、俺はそうでなければいけないんだ」(尾崎一雄「暢気眼鏡」)という開き直りの自己肯定しかない。

 だめなときもふくめて自分の感覚を受けいれる。受けいれつつ、回復を待つ。
 半ばヤケクソで「寝れば直る(治る)」くらいのおもいこみも必要なのかもしれない。

(……続く)