『目利きのヒミツ』をはじめて読んだとき、三十二歳の自分はどんな感想を持ったのか、よくおぼえていない。
《じっさいにやってみれば考えが変ることもあるのに、そんな「いいかげんなこと」は信じられない》
当時のわたしは簡単に考えを変えることは無責任だとおもっていたし、ぶれることはいけないとおもっていた。
同時に本ばかり読んでいて、経験が足りていないというおもいもあった。ただ、頭もからだも急激な変化はよくない。だから「徐々に」「ほどほど」といった感覚が必要だ。
そもそも頭とからだを分けて考えるのは頭の発想である。
疲れには体の疲労と心労がある。たぶん単純に分けることはできない。体の疲れが心の疲れにつながることもあれば、その逆もある。
思考は体調に左右される。
『目利きのヒミツ』は、すぐよこ道に逸れる。理路整然とは逆だ。赤瀬川原平は、オウムの原稿を書いて、ゲラで読んでがっかりし、はじめから書き直したという。わかりきったことを大マジメに書いてしまったと反省している。
「オウムの頭と体」はそうした経緯を経て綴られた文章である。
《体にとっていちばん警戒しなければいけないのは頭の観念世界で、体はそんな頭を上に乗せているから困るのである。頭だけで観念世界をいじるならいいが、そうはいかない。観念が膨張をはじめると、それを乗っけている体は動かなくなり、それがつづくと体は観念に吸い込まれて骨抜きになる》
《ヨガとか座禅とか瞑想とかいうものには、体の教養主義を感じる。思い過ごしだといいんだけど》
《文化というのはたんに出来上がった絵画や文学というだけのものではない。それは結果の話であって、むしろそれ以前の生活の中でユトリの部分、ショックアブソーバー。頭ではムダだと思われながら体がどうしても欲しいもの。自分に合った物や事柄への愛着。(中略)つまりむずむずする体が文化の母胎としてあるわけで、頭はというともちろん科学である》
赤瀬川原平は、オウム信者のバランス感覚や身体感覚のなさを指摘する。オウムに限った話ではない。わたしもそうだが、知識や情報に比重を置きがちな現代人は、多かれ少なかれ「体」が「観念」に支配されている。
スポーツや武術をやっている人でさえ、理論や理屈で体をコントロールしようとする傾向がある。
(……続く)