2014/02/03

目利きの話 その三

 東京の最高気温一八度。四月上旬並の気温らしい。

『目利きのヒミツ』を再読し、その中の言葉が、自分がおもっている以上に深く残っていたことに気づいた。

「真贋の奥に見える生きもの」というエッセイで焼物の話が出てくる。

《たとえば焼物の良さというのは、いちど自分の手で焼いてみないことはその本当の良さがわからないような気がする》

 なんてことのない文章だが、今回読んで、うーんと考え込んでしまった。たぶん、前に読んだときも、そうだったとおもう。

 焼物を作る。何でもない色でもこの色を出すことがむずかしい。
 赤瀬川原平は「そういうことはいちど自分の手でやってみて失敗を重ねて、やっと実感できることである」という。

 焼物にかぎらず、あらゆる創作、演芸、スポーツなどにもいえる。
 何だって見るのとやるのは大違いだ。

 野球を観ていて、ピッチャーの失投、野手のエラー、打者の凡打にヤジを飛ばす。
 当たり前だけど、自分がその場所にいて、それができるかといえばできない。しかし「プロでお金もらっているんだから、できて当然」と考える。
 では、自分はまったくミスをしないかといえば、そんなことはない。しょっちゅうある。

 世の中には焼物を作ったことはないが、焼物の良さがわかる人がいる。
 赤瀬川原平は「おそらく見ることの集積が、それを作る作業の感覚にまで染み込んでいって、知識が実感にまで重なることがあるのだろう」と推測する。

 焼物のむずかしさを知らずに焼物を批評するようなことをよくやってしまうなと『目利きのヒミツ』を読んで痛感した。

 テレビに出ている芸人を見て「つまらない」とおもったり、プロ野球選手のエラーを「ヘタクソ」とおもったりする。そうおもう自分はその舞台やグラウンドに立つことのむずかしさをわかっていない。

 誤解してほしくないのは「自分ができないくせに何もいうな」といいたいのではない。

《やっぱり身銭を切らないと物は見えてこないのはどの世界も同じようで、お金を媒介としてその物との関わりが一段と深まる》

 この文章も読みながら、うーんと考えさせられてしまった。

 今は「見ることの集積」という言葉の重さと深さに困惑している。

(……続く)