東京は十六年ぶりの大雪。午前中に西部古書会館の「大均一祭」に行く。寒い。
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目利きの話の続きを書いていたら、自称・耳が聴こえない作曲家と代作者の騒動が起こった。
素人は素人なりに、いい曲とそうでない曲の聴き分け方がある。
おぼえやすい曲、印象に残る曲は(素人にとって)いい曲だ。玄人からすれば、単にわかりやすい曲だということになるのかもしれない。わかりやすい曲=優れた曲とは限らない。
「現代のベートーベンが作った曲だ」といわれて、うっかり信じてしまう。「このワインは、×万円」といわれたら、なんとなく「うまいのかな」とおもってしまうのも似たようなものだろう。
逆にいえば、プロの耳もアマチュアの耳もだませるような「贋物」だったら、それはたいしたものだ。
事の顛末が明らかになっても「やっぱりいい曲だ」とおもえるのなら、代作者の才能は「本物」だったということになる。
とはいえ、昔も今も、音楽が曲のよさだけが評価されることは稀だ。歌手やバンドの力量(外見も含む)にも左右されるし、聴き手は歌い手や作り手側の物語込みで音楽を聴く。
わたしの場合、古本や中古レコードにたいし、「苦労してやっと見つけた」という感激をその評価に加えてしまう。作品のよしあしではなく、稀少価値があるかどうかに左右されやすい。
コレクター以外にはどこがいいのかわからない印刷したカードでも「レア」であれば、高額で取引される。
耳が聴こえない(フリをしている?)独学の作曲家は、学校で地道に勉強してきた作曲家よりも「稀な存在」だ。耳も聴こえず、譜面も読めないのに、交響曲が作れたらそれこそ「奇跡」だ。
わたしはそれをありがたがってしまう人を否定できない。
後からおもえば、贋作曲家の能力を試す方法はいくらでもある。
クラシックの名曲のスコアを見せて誰の曲かを当てさせる。
プロの作曲家ならすぐわかるだろう。
譜面が読めないとわかったら、もっと早く協力者(代作者)の存在に気づいたはずである。
十八年もバレなかったことが、いちばんの「奇跡」だとおもう。