渡辺京二の『無名の人生』(文春新書)を読んでおもったことのひとつに、無名——あるいは平凡といってもいいのかもしれないが、それで生きていくことも、人によっては楽ではないということだ。
本好きは、ひとりでいる時間が長い。むしろ、ひとりのほうが楽な人も少なくないだろう。読みたい本の数が、百や千という単位になれば、それだけ長く、ひとりの時間をすごすことになる。
どこに行っても、早く家に帰って本が読みたいとおもう。もしくは布団の中でごろごろしたい。
集団生活に適応できなかった人間の強がりもあるが、知らない人に囲まれて、何をしていいのかわからない時間をすごすくらいなら、本を読んでいたいというおもいは、はっきりある。
問題は家でごろごろ本を読んでいるだけでは、仕事にならない。働かなくても食うに困らない生活が望めない以上は、最低限の人付き合いは必要になる。
わたしは十人二十人という集団における社交はかなり苦手だが、一対一ならどうにかなる。頑張れば。
社交性に自信がないタイプの人は、集団の中で自分の役割がわからない、もしくはわかっていても、その役割を果たせない。
「おまえはここではこういう人間として振る舞え」という場の圧力にどうしても抵抗感がある。押し付けられる役割がたいていロクなものではないとおもっている。事実そういうことが多い。
押し付けられる役割を嫌がっている空気は黙っていても周囲に伝わる。
むこうはむこうで、あいつは自分たちに反感を持っている、バカにしていると感じとる。残念ながら、そのとおりだったりする。
まわりから自分の望まぬ役割を押し付けられないためには強くなる、偉くなる——無名ではなく、特別を目指す、そういう道を歩むしかないのではないか。変わり者として開き直るしかないのではないか。
長年わたしはそう考えてきた。
無名のままでは平凡なままでは生きていけないとおもっていた。
(……続く)