渡辺京二の面白さを教えてくれたのは『些末事研究』の福田賢治さんだった。何年前かは忘れたが、高円寺の飲み屋でそんな話になった。『女子学生、渡辺京二に会いに行く』の刊行が二〇一一年九月だから、それよりすこし前だ。この本にはあらゆる頁から刺激を受けた。
たとえば、こんな言葉——。
《人間という生き物は、光から影まで、要するに、闇まで、振幅が大きいわけで、その全振幅というのを全面的に肯定しながら、それぞれの居場所を作ってやるということがやっぱり大事だと思うんですね》(「自分の言葉で話すために」/『女子学生、渡辺京二に会いに行く』)
この引用部分の前後も大事なことを語っている(ぜひ読んでほしい)。
人間の社会は規律や道徳によって縛られている。そうした縛りがないと社会が無茶苦茶になる。
では、そこからはみだしてしまう人はどうすればいいのか。矯正か排除か。その二択しかないのか。矯正(更生)を拒むと排除される。排除されても自業自得といわれる。
市民社会には「このくらいの変わり者だったら許してやろう」という寛容さは存在する。しかしある一線をこえてしまうと排除や追放の憂き目にあう。
一線をこえた本人だけでなく、擁護する人間も叩かれる。「その処分はちょっと厳しすぎるんじゃないか」という意見すらいえない雰囲気がある。
悪を徹底して排除すれば、善だけの住みよい世の中になるのか。そんなことはありえない。
渡辺さんは「光と闇」ではなく、「光から闇まで」という言葉をつかっている。当然、光と闇のあいだには、影の部分(グレーゾーン)がある。影の部分にはなだらかな濃淡がある。いわゆる「日陰者」といわれる人たちの多くはその部分に棲息している。「日陰者」の中には陽のあたる世界に行きたいとおもっている人もいるだろうし、ちょっと薄暗い日陰のほうが居心地がいいとおもっている人もいるだろう。闇の側に向かう人もいるだろう。
光か闇かの二択になると「日陰者」の居場所がどんどん減ってしまう。
(……続く)