東から西に向かう台風——今朝のニュースでは「逆走台風」と呼ばれていた。
台風一過の日曜日、西部古書会館。“街道熱”のせいか、本を見る目が変わる。「道」という言葉に反応する。
街道関係の本は膨大にある。さかのぼれば、古代史の領域に到達してしまう。限られた時間の中で何ができるか。今の自分の興味をどう絞り、どこに焦点を合わせるか。どの道をどう歩くか。
この日は、藤森栄一著『古道』(學生社、一九六六年)、杉浦明平著『東海道五十三次抄』(オリジン出版センター、一九九四年)を買う。
『古道』によると、「東海道は、水路が多く、馬匹輸送にはかならずしも適していない。(中略)かといって、古い三河・遠江よりの信濃路は、あまりにも長い」とある。東海道と中山道でいえば、中山道をほとんど知らない。今、気になっている中山道の宿場町のひとつに塩尻がある。
《塩は三河からも、越後からも入った。南塩・北塩という、その南北の塩の合流点が、中仙道の塩尻だったという》
『東海道五十三次抄』の杉浦明平は愛知県渥美郡福江村生まれ。
《わたしの住む渥美半島から伊勢の神島(三島由紀夫『潮騒』の夢島)は、伊良湖水道を距ててわずか八キロの西に浮かび、その北や西の背後には三重県の山々が連なっている》
しかし明治以降、伊良湖と三重は「近くて遠い隣仲」になる。わたしは今年はじめて鳥羽から渥美半島の伊良湖に行った。そこからバスと電車で豊橋に出て東京に帰った。いうまでもなく名古屋経由で新幹線に乗るほうが断然早い。
『東海道五十三次抄』に「東海道の名残り」というエッセイがある。
《東海道は、国道一号線に名を改めて以来、急速に滅びてしまった》
《また、東海道の主要な宿場の大部分は、木曽路とちがって、明治以降近代都市となって江戸時代の姿とは似ても似つかぬものになった》
《幕府は、役人が上方や九州方面に出張する際往路は東海道、帰りは中山道を通るようきめていた》
往路と復路で道を変えたのは、便利な東海道ばかりつかえば、木曽路や信濃路の宿場が潰れてしまうからだ。寄り道や遠回りが町や街道の文化を支えていた。わたしもできるだけこの江戸の考え方を生活に取り入れていきたい。遠回りを楽しむ文化を根づかせることが地方の再生の鍵になるのではないか……そんなことをぼんやりと考えているわけです。