戦前の中央線界隈の文士の趣味について調べているうちに、高円寺に暮らしていた龍膽寺雄がシャボテン(サボテン)にのめりこんだのはいつごろか知りたくなった。龍膽寺雄が高円寺から神奈川県高座郡大和村下鶴間(現・大和市中央林間)に転居したのは一九三五(昭和十)年十一月。彼が中央林間に引っ越したのは、シャボテンを栽培するための広大な敷地が必要だったというのも理由の一つである。つまり、それ以前からシャボテンの栽培はしていた。
ちなみに「阿佐ヶ谷会」がはじめて開かれたのは一九三六(昭和十一)年といわれている(諸説あり)。
一九二五(大正十四)年に中村星湖の「山人会」、一九三四(昭和九)年に中西悟堂の「日本野鳥の会」、そして一九三六(昭和十一)年に「阿佐ヶ谷会」と時期はバラバラだけど、趣味の集まりが誕生した。さらにいうと、星湖、悟堂、井伏鱒二のいずれも旧・井荻町(豊多摩郡)に住んでいたのも面白い。
「阿佐ヶ谷会」の初開催は一九三六年(昭和十一)四月——というのは木山捷平の年譜の記録なのだが、この年、二・二六事件が起きている。
井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)の目次を見ると「阿佐ヶ谷将棋会」「続・阿佐ヶ谷将棋会」のすぐ後に「二・二六事件の頃」という見出しが並んでいる。「二・二六事件の頃」も「阿佐ヶ谷将棋会」の話からはじまる。
《阿佐ヶ谷将棋会の連中は、ABCDEF……お互に世間的には丙と丁の間ぐらいの暮しをしていたが、お互に意地わるをする者もなく割合に仲よく附合っていた》
そんな話から「左翼文学が華々しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった」と井伏鱒二は回想する。
《二・二六事件があって以来、私は兵隊が怖くなった。おそらく一般の人もそうであったに違いない》
『荻窪風土記』所収の「阿佐ヶ谷の釣具屋」の冒頭に「戦前、釣の流行で東京に釣師の数が殖えるようになったのは、昭和八、九年頃であったと思う」という記述もある。そのころ、中央線のどの駅にも釣具屋があったらしい。
小林多喜二は、その後「阿佐ヶ谷会」のたまり場となるピノチオにも出入りしていた。
《多喜二が亡くなったという速報が伝わった日に、私は外村繁や青柳瑞穂とピノチオに集ったが、刑事がお客に化けて入って来ているのがわかったので、私たちはこそこそ帰って来た》
「阿佐ヶ谷会」が誕生した時期に「諸説あり」と付けたのは、以前から井伏鱒二や青柳瑞穂はピノチオにしょっちゅう集まっていたからである。
わたしは「山人会」「日本野鳥の会」「阿佐ヶ谷会」も一癖も二癖もある文士や学者が集まって、戦前の中央線界隈は楽しそうだなとおもっていた。昭和十年前後は「文芸復興時代」と呼ばれ、華やかな印象を抱いていたのだが、その背景には軍部の圧迫があり、さらに不況も重なり、そんなに単純な話ではないなと……。