2007/03/01

少年

 山口瞳の『父の晩年』(河出書房新社、二〇〇七年一月)には正直まいった。
 単行本未収録作品を読むと、「なぜこの作品をいれなかったのか」とかんがえる。この本の中の「少年」を読んでいたら、作品の完成度うんぬんをかんがえること自体、バカバカしい気がした。うむをいわさぬ作品——この短篇はその最たるものだ。

《神様になりたいと願った。
 実は、そういう書き出しで、八年前に、小説を書いたことがある。私が初めての短篇集を出版して貰うときに、その小説も候補にいれておいた。小説の出来はよくなかったのだけれど、短篇集にいれてもいいぐらいに思っていた。
「これは駄目ですか」
 私は、女の編集者に言った。
「どうもね……」
 彼女は、掴みにくい表情で言った。老獪にしてシャープである》(「少年」)

「神様になりたいと願った」という書き出しの「神様」という短篇は、『愛ってなに?』(新潮小説文庫、一九六八年)に収録されている。ところが、『愛ってなに?』(新潮文庫、一九七七年)には入っていない。文庫では『谷間の花』(集英社文庫、一九八〇年)で読める。
 昨年、近鉄鈴鹿線沿線にある田舎に帰省したとき、父の本棚をあさっていたら、新潮小説文庫版の『愛ってなに?』を見つけた。新書サイズで、柳原良平の装画も美しい。
『愛ってなに?』(新潮文庫)とまったく同じだろうとおもっていたら、収録作がちがう。細かい話かもしれないが、わたしはちょっとおどろいた。新潮小説文庫版は長屋にいたころ、父の本棚にあったのだが、十数年前、今の集合住宅に両親が引っ越してからは見かけなくなっていた。
 三年くらい前に父と飲んでいるとき、ふと「『愛ってなに?』の単行本なかったっけ?」と訊いたら、「知らん」といわれた。それがこのあいだ帰省したときにはあったので、「これ、前なかったよね」というと、また「知らん」。
 父は語彙が乏しい。
「これ、もらうよ」
「ああ」
 かくしてお宝アイテムを手にいれた。

 話はそれたが、山口瞳の小説では「神様」がいちばん好きだ。一人の作家にとって一生に一作というような作品だとおもっている。
『父の晩年』に収録された「少年」も、「神様」とよく似た作品だ。「少年」のほうはすこし混乱気味のところもあるが、そういう意味では、「少年」のほうがわたしの好みかもしれない。いや、甲乙つけがたい。

 徴兵検査が迫り、まもなく軍隊に入る。少年は軍隊に入れば、死ぬとおもっている。

《あと一年の生命というときに、人は何を考えるだろうか。私は、自分の短い一生に辻褄を合わせようと思った。どうやって辻褄を合わせるか。あまりにも短か過ぎるストーリーであるが、オチをつけなくてはいけない》(「少年」)

 追いつめられた少年は、いろいろ複雑な感情を経由して「神様になりたい」とおもいつめるようになる。それから月日が流れ、中年になり、罪悪感、羞恥心がうすれてゆく。
「神様」という短篇でも、《痛くはないのか。お前の心は。痛みを感じなくなったのか》と主人公が自問する場面があるのだが、「少年」のテーマも同じである。
 罪悪感、羞恥心から解放されたい。後ろめたくない生き方をしたい。山口瞳にいわせるとそれが「神様になりたい」なのだ。
 わたしは父と向きあうと、いつもそういう気持になる。この人は、嘘というものをついたことがないのではないか。不正を働いたことがないのではないか。
 なにを考えているのかわからない。酒を飲んでもまったく酔わない。とにかく喋らない。欲がない。バカみたいに穏やかで退屈だ。
表題作の「父の晩年」に描かれる山口瞳の父とは、似ても似つかない。

《鎌倉には資産家が多く、戦犯などで遊んでいる事業主が大勢いた。これを狙うヤクザ者の数も多かった。父も狙われたほうの一人である。いったい、父はどのくらいの金を捲きあげられたのだろうか。当然むこうは細工してくる。父のような男には、それが見破れない。
 私の家には、ついに、ヤクザ者が入りびたるようになった。ヤクザ稼業の最大の仕事は、旦那衆を見つけて、これをしゃぶりつくすことである》(「父の晩年」)

「父の晩年」は、父の実像にせまった長篇『家族』(文春文庫)の二年前に書かれた短篇である。だから内容も重複している。

《「どんなことがあっても、根拠のない馬券を買うわけにはいかない」
 私は、父のこの言葉が好きだった。もしかしたら、これは、父が私に遺してくれた唯一最大の教訓であるかもしれない》(「父の晩年」)

《「どんなことがあったって、根拠のない馬券を買うわけにはいかない」
 私は父のこの言葉が好きだ。もしかしたら、これは父の遺した唯一最大の教訓であるかもしれない》(『家族』)

 こんなふうにほとんど同じ文章も出てくる。「父の晩年」は、山口瞳の読者ならどこかで読んだことのある話ばかりだとおもう。しかしうむをいわせない。うむをいわせぬ小説はからだに響いてくる。あたまの中が軽くしびれ、読後しばらくぼうっとしてしまう。
 この感覚が味わいたくて、わたしは小説を読む。仕事が手につかなくなるくらいぼうっとなってしまうような作品が読みたくて、毎日新刊書店と古本屋をまわる。『父の晩年』は条件反射で買った。「父」と「山口瞳」という文字がふたつ並んでいたら、わたしはなんだって買うだろう。

 わたしはこのふたつの単語にとても弱い。