2007/03/30

一日のばし

 黒田三郎のエッセイを読み、詩の難解さについて、あるいは詩人の生活について、いろいろ考えこんでしまっている。
 本を読んでいて、作者の問いかけが長く心に残るのはうれしい。
 黒田三郎という詩人の存在は、この先、自分が生きてゆく上で、かなり大きなものになるかもしれない、と予感した。「これは避けて通れないぞ」とおもった。こういうかんじは久しぶりだ。今、ちょっと混乱している。

《僕に何ができるというのか
 何が
 僕がゆっくり歩くのは
 ひとつの風景のなか
 僕の胸にあざやかによみがえるのも
 それはひとつの風景なのか
 悲しみと怒りにふるえて僕が語るとき
 それはひとつのお話、つまらないお話》
   (「それはひとつのお話」抜粋。詩集『ある日ある時』)

 長年「荒地」の詩人では、鮎川信夫に傾倒してきた。鮎川信夫を読んで、黒田三郎のことを真面目な左翼っぽい詩人なのかなあとおもいこんでいた。ほんとうに誤解していた。

『定本黒田三郎詩集』(昭森社)の中に「一日のばし」という詩がある。

《一日のばし
 二日のばし
 つまらぬことも
 大事なことも
 何となく明日にまわして
 そうやって
 やっとのことで生きて来たようだ
 一日のばし
 二日のばし
 そういう
 とりかえしのつかぬ不安のなかに
 僕の生活の大半が
 ある》(抜粋)

 昔からこういう詩が好きだったかといえば、そうだったような気もするし、そうではなかった気もする。こういうだめなかんじの詩が好きな自分をどこか恥じる気持もあった。この方向に進んでいっていいのかどうか迷いがあった。

 一九四九年、結核の診断を受け、鹿児島に帰郷していた黒田三郎はT・S・エリオットやC・D・ルイスを知っていることを前提に書かれたような詩を批判し、そんなものを知らない読者にもわかる詩を書くべきだと主張するエッセイを執筆する。

《他人に何かを伝えようとしながら、他人に何も伝えることがのできない人間、このような人間が詩人と呼ばれているのなら、まったく皮肉と言うほかない》(「詩の難解さについて」/『内部と外部の世界』昭森社)

 ただしこうした黒田三郎の問いかけは鮎川信夫には届かなかった。いや、ほんとうのところはわからない。

《鮎川 黒田を戦前から知ってるからね。十八、九の頃、もう会ってるんだからさ。だけど、彼の生活や思想から、書くものの全部を理解しているかと言ったらそうじゃないでしょうね。もう、うんと遠いということだな。ただ、ぼくの率直な感じで言うと、黒田は何か途中で力を緩めちゃったというか、休んじゃったという感じがしますね》(北川透との対談/鮎川信夫著『自我と思想』思潮社)

 わたしが黒田三郎の本を読んで混乱したのは、先にこの対談を読んでいたせいもある。気にしなければいいともおもうのだが、気になるのだからしょうがない。
 黒田三郎の詩を読むと、今のわたしは理屈ぬきでいいとおもう。黒田三郎の詩について、緩めちゃったとか休んじゃったとか、そういうふうにはまったくおもわない。

 鮎川信夫と北川透との対談は、「黒田三郎の追悼をかねて、『荒地』の現在について語ってもらいたいという「現代詩手帖」の依頼によるもの」だった。
 一九八〇年一月八日に黒田三郎は亡くなった。享年六十。この対談が行われたのは、同年二月二十五日である。

《わたしは、ひどく憂鬱だった。その原因と理由については、いずれ書く機会があるだろうから、ここでは詳しく言わないが、およそ人に会い、現在の「荒地」について意見を述べるような気分ではなかった。
 石原(吉郎)、木原(孝一)、黒田と三年連続して「荒地」から死者が出たことと、長期にわたるスランプ状態が極点に達していたこととが相俟って、私は、この年の八月には本気で詩をやめようと考え、その想念に熱中するようになるが、北川氏とのこの対談は、いわばその途中にあったわけである。(中略)黒田を批判したことで、何か特別の意味があるかのようにとられたが、このときの私は、他の仲間のことを話題にしても、たぶん、こんな調子であったろう》(『自我と思想』あとがき)

 わたしは、黒田三郎のことを書こうとしながら、鮎川信夫のことを書こうとしているのか。あるいはそうかもしれない。

……この問題はまだまだ続きそうだ。