先日、友人から「私のしごと館 JOBJOB WORLD」というホームページを教えてもらった。「関心から探そう!」の「文章・出版・ジャーナリズム」を選び、「文章を作成・編集する」という項目を押す。そこから「小説家」を選ぶと、次のような説明が出てくる。
《小説には、純文学小説、歴史小説、ミステリー(推理)小説、SF(Science Fiction : 空想科学)小説などがあります。自由な構想力で、登場人物の言動や取り巻く環境・風土を描写して、読者を非日常的な世界に誘い込むという小説を書くのが、小説家です》
問題はその先だ。“小説家をやっている人の体験談を聞こう”というコーナーがあって、なんと、そこに古山高麗雄さんが登場するのだ。しかも映像付である。
そのタイトルからしておかしい。
《経験30年 「才能の不足に死にたくなる」 古山高麗雄さん》
おそらくこのホームページは、若い人たちに自分の希望する職業につくためにはどうすればいいかを教えようという趣旨で作っているとおもうのだが、いきなりこれだ。
古山さんが亡くなるだいたい二年前のインタビュー、たぶん八十歳くらい。
古山さんのコーナーにはこんな言葉がそえられている。
《ある程度書くと、重労働したあとみたいに、くたくたに、くたびれます。
何故くたびれるかというと、自分の才能の限界を超えようとするからです。書いているうちに、思っていることがこの表現でいいのかどうか、自分自身気に入らないこともあります。希望通りなかなか進みません。そうすると、苦しくて苦しくて「こんな程度の作家なら、やめた方がましじゃないか」と思うこともあります》
体験談の映像(約四分)でも、小説家になることのむずかしさしか語っていない。
(以下、その要約)
……たまたま純文学作家のなかにも収入の多い人がおりますけども、そういう人はごく稀な人です。よほど才能があって運に恵まれなければなかなかなれません。
懸賞に応募して、それがきっかけになって作家になる人もいますけど、それも狭き門ですよね。また当選したらその人はかならず保証されるかといえば、保証されません。
なんとか文学賞に当選したけども、それっきりになったという方は大勢いらっしゃる。
小説というのはかならず誰でもひとつは書けるといいますね。でもそれは職業として書き続けていくということとはちがいますよね。
ルナールの日記に、才能というのは、気のきいた台詞がいえたり、表現ができたりするというようなことではなくて、牛のように歩んでいける、たくさん書けるのが才能だということを書いてありますね。やっぱり持続性がないとだめですよね。
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古山高麗雄さんの『私がヒッピーだったころ』(角川文庫、単行本は『小説の題』冬樹社)に「職業作家としての不安」というエッセイが収録されている。
《小説を書き始めてから、私は自分に欠けていたものが、あまりにも多くかつ大きいことに気がついて、愕然としました。
これで職業作家としてやっていけるのだろうか、と不安でした。
小説家にもいろいろな型があって、まるで蚕が糸を吐き出してでもいるように、次から次に言葉がつながって出てくるような恵まれた才能をもっている人もいるようです。(中略)そうかと思うと、もっと短い小説でも、長い日数をかけて、考えに考えあぐねながら、骨身をけずるような書き方をする人もいます。(中略)そして私はどんな書き方をするかというと、体をこわしてしまうほど考えあぐねたり、格闘したりするほどではないにせよ、やはり考えあぐねるタイプのような気がするのですが、どうも私が考えあぐねるのは、私が思考を好む体質の持主だからということではなくて、知らないことが多過ぎて、いちいちつっかかって、そこから進めなくなってしまうといったようなことのようです》
古山さんの作品が好きな人は、考えあぐねながら書いた文章が好きなのだとおもう。
わたしは古山さんの小説でなにがいちばん好きかときかれると『身世打鈴』(中央公論社)と答えている。小説の途中で、答えの出ない問いを考えはじめてしまい、わからない、わからないと悩みはじめてしまう。小説なのか、随筆なのか、ルポルタージュなのか、よくわからない作品である。
《私は、過保護といわれる今の若者たちを批判するわけには行かない。私自身、過保護であって、甘ったれていたのだから。そのことに気がついたのは、何かを得たということになるだろうか? だとしても、それを得た代わりに、自信を失ったとしたら、それでも私は何かを得たといえるだろうか?
そんなことを私は、戦後ずっとぐだぐだと思い続け、結局はわからないのである。
そのぐだぐたした取り留めのない思いの中で、私は、人は運がよければ恵まれるし、運が悪ければ恵まれない、そしてその運は、自分ではそうしようもないものだ、と、ずっと思っている》
《小説、と言っても多様だが、私は小説を書く場合、いつも、他人をどこまで想像できるかやってみようという考えにとらわれる。しかし、うまく行ったためしがないのだ。
私は、自分の限界を、実は知っているのだ。だからいっそう、その志向にとらわれてみようとする。ムキになってみても、ダメなものはダメだと承知していて、だからなおムキになる。私は、そういうところに落ち込んでいる》
《小説を書いていれば、小説とは何か、と考える。小説でなければ表現できないものとは何か。小説にしてしまうと表現できなくなりものは何か。私は何か言うために小説を書こうとしているのか。小説を書くために何か言おうとしているのか。そんなことを、私はいろいろ考えて、結局、結論が出ない場合が多いのである》
昔、古山さんの仕事場に遊びにいったとき、運、不運についてたずねたことがある。
「あなたはまだ若いのだから、私のような運命論者になってはいけません」
たしかそんなことをいわれた。古山さんは五十歳も年下のわたしにたいしても「自分には才能がない」といいつづけていた。とはいえ、さりげなく「作品の質を落としてまでは書きたくない」ともいっていた。
古山さんは、たしかにすらすらと文章を書く才能はなかったかもしれない。失礼ながら、ベストセラー作家になるタイプでもなかったとおもう。
五年前の二〇〇二年三月十一日に古山さんが亡くなり、しばらくしてから「sumus」同人の南陀楼綾繁さんから[書評]のメルマガの「全著快読 古山高麗雄を読む」の連載を頼まれた。
その前は柳瀬徹さんが「全著快読 山田稔を読む」を連載し、今は扉野良人さんが「全著快読 梅崎春生を読む」を連載中だ。
古山さんは作品の数は多いけど、似たような読後感の作品ばかりで、わたしの連載は二年半続いたが、五回目くらいでもう書くことがなくなってしまった。前任者の柳瀬さんに愚痴をいうと、笑いながら「苦しんでください」といわれた。
ただ、古山さんの本を五十冊くらい読み続けているうちに、答えの出ないテーマを持っているということは、それ自体、才能なのではないかとおもうようになった。
わかることだけ書いていると、あっという間に書くことがなくなってしまう。
絶筆となった『人生、しょせん運不運』(草思社、二〇〇四年)でも、古山さんは堂々めぐりをつづけている。
《とにかく、わからないことだらけです。わからないことだらけで、結局私も、近々死んでしまいます。それでいいのだ、と思います。
わからないのは、短い将来や他人のことだけでなく、過去のことも、自分のことも、実は何もかもわかっていないのではないか、と思われます。
この年になると、過去を思い出すことぐらいしかすることがない。また、私は物書きだから、物を書くことしかすることがない。それで、ろくにわかっていないのに、過去を思い出しては、ああでもない、こうでもない、と思いながら私小説を書いているわけですね》
古山さんの本を読みはじめて十五年くらいになるが、いまだによく読み返す。読みかえすたびに、わからないことが増える。
読み終えたあとも、古山さんがわからないといっていたことを自分なりに考える愉しみがある。
運不運とは? 戦争とは? 他人の痛みとは? 小説とは? 文章を書くとは?
そんな問いに迷い込み、古山さんほど考えあぐねたわけでもないのにわかった気になってはいけないと考える。