2016/11/18

保守とリベラル

 わたしが『鮎川信夫拾遺 私の同時代 エッセイ1980〜1986』(文藝春秋、一九八七年刊)を読んだのは学生時代——一九九〇年ごろだったとおもう。「保守とリベラル」はロナルド・レーガンが二期目を目指す大統領選挙の年(一九八四年)に書かれたコラムだ。

《保守といわれるのは、アメリカでも、ながい間、格好のいいものではなかった。リベラルの方が、格好よかった。それが、そうでなくなったのは、新保守派がいちじるしく台頭してきた七〇年代も終わりに近づいてからである》

 保守が格好のいいものではないという感覚は日本では一九九〇年代のわたしが学生のころにも残っていた。保守=右翼というイメージも強かった。

《ところで、保守(コンサーバティヴ)といい、リベラルといい、ラジカルという、こうした政治用語は、曖昧に使われることが多い。保守といっても、日本やヨーロッパとちがって、アメリカは歴史の浅い国だから、歴史感覚や伝統意識にあまり捉われない。(中略)だから保守とは、アメリカの文化を最高だと信じ、アメリカ的な価値観を擁護するナショナリズムだくらいに解しておけば無難であろう》

《これに対して、リベラルの思想的基盤は、インターナショナリズムで、社会主義的である。公民権運動や福祉の面で多くの成果を挙げたが、何といっても、インターナショナリズムとしての〈社会主義〉が魅力を失ってきたのがひびいて、次第に衰退するようになった》

 当時のアメリカでは保守とリベラルの対立そのものがあやふやになり、政治家も、保守かリベラルか表明しなくなりつつあった。

《大統領ともなれば、万人から好かれなければならないので(そんなことは不可能だが)、とにかく政策の幅を大きくとって、選択の自由を拡げたほうが有利である》

 八〇年代のアメリカでは共和党だろうと民主党だろうと基本政策は変わらないものになっていた。
 今は保守とリベラルではなく、都市と地方、あるいは世代の対立のほうが大きい。時代や国がちがえば、保守とリベラルのあり方もちがってくる。「大きな政府」と「小さな政府」にしても、どっちが保守でどっちがリベラルなのかわかりにくい。

 鮎川信夫は「『レッド・ネック』の哲学」というコラムでも「保守とリベラル」について論じている。

《アメリカの保守主義が日本やヨーロッパのそれと大きく異なるのは、自由を尊ぶ点である。保守主義は「伝統に帰れ」ということを標榜するのがふつうだが、アメリカの場合、伝統に帰ると建国の昔にゆきつく。そしてアメリカの建国の精神とは、「自由を守る」ことにほかならない》

 映画『イージー・ライダー』でヒッピーの若者が、ラストシーンで地方の農民に殺されてしまう。「レッド・ネック」は「陽に焼けて首もとが赤くなっているという意味の蔑称」で、鮎川信夫はネオコン(新保守主義)の思想を「レッド・ネックの哲学」と指摘する。

《『イージー・ライダー』の例でいえば、ヒッピーの側には、自らの行為を正当化したり美化したりするのに過剰なまでの言葉があったのに、レッド・ネックの側は、単に無知で粗野な連中としてしか示されていなかった。(中略)しかし、彼らが言葉を獲得すれば、その行動は自ずから違ってくるはずである。リベラル派のインテリは彼らを軽蔑したが、ネオコンは彼らを軽蔑せず、きみたちは間違っていないという立場なのである》

《保守主義が思想に昇華した理由は、いうまでもなくリベラルが、七〇年代の後半になって急速に衰えてしまったということがある。リベラルの主張する自由は、結局のところアメリカという国の力を弱める方向にしか働かなかった》

 そして一九八五年に書かれた「『レッド・ネック』の哲学」では「反知性」というキーワードも出てくる。

《ユートピア主義に傾いて、人間性を変えたり、本能を拒否する社会制度をつくるのは愚かである。フランスの衒学的な抽象哲学やリベラル派の左翼主義にだまされるな。(中略)こうした「反知性」としてのイデオロギーの誕生は、ヨーロッパでは珍しいことではなかった》

 日本では「反知性主義=知性がない」と誤解されることもあるが、本来、観念に傾きすぎた思想にたいするカウンターの思想だった。

《思想というのは、結局は行為を正当化するための言葉なのだから、これからも、時代や社会の変化に応じて、アメリカ国民の生き方を活性化させるような新事態に即応する言葉をどんどん繰り出せるかどうかにかかっている》

 かならずしも鮎川信夫は「レッド・ネック」の哲学を肯定しているわけではない。

《六〇年代のラジカリズムはエスタブリッシュメントに対する否定感情だけで成り立っていたにすぎない。野坂昭如流の言い方を借りれば、恨み・嫉み・僻みの三大動機をバネとして体制を攻撃したわけだ。(中流)ラジカリズムの底にはポピュリズムがある。「人民主義」あるいは「大衆主義」ということになるが、毛沢東の文化大革命は、アジアにおけるその一つのサンプルである》

《ポピュリズムというものは、左右を問わず、中味はお粗末で、あまりいいものとはいえない》

《ここに、ネオコンが真に根づくかどうかにとってのもう一つの問題がひそんでいる。ネオコンも一種のポピュリズムだからである》

 三十年以上前の文章とはおもえない。すごい先見性だ。
 学生時代に読んだときはほとんど理解できなかった。今、読んでもむずかしい。『イージー・ライダー』をもういちど観ようかどうか迷っている。