神田古本まつりで豊田泰光の署名本を買いそびれた話を書いた。その本は『トヨさんの新・長幼の序』(情報センター出版局、一九八六年刊)なのだが、署名がなければ、インターネットの古本屋で半額以下で買えるのではないかと判断した。わたしは携帯電話やスマホを持っていないので、その場でネットの相場を調べることができない。いつも勘頼りだ。
たぶん千円以下なら迷わず買っていたとおもうが、『トヨさんの新・長幼の序』は千二百円だった。ただ、自分がこの本を手にとって、値段をチェックしたのは、あまり見かけない本だったからだ(というか、知らなかった)。
……結局、土曜日、また神保町に行った。もしかしたら売れてしまったかもしれない。そのときはそのときだ。
豊田泰光は今年八月に亡くなっている。現役時代はまったく知らないが、野球解説者としては好きな人だった。西鉄ライオンズから国鉄スワローズに移籍していて、わたしが生まれた年に現役を引退している。
小林秀雄の『考えるヒント』に国鉄時代の豊田泰光と酒を飲んだとき、スランプの克服法を語ったエピソードが出てくる。
《どうも困ったものだと豊田君は述懐する。周りからいろいろと批評されるが、当人には皆、わかり切った事、言われなくても、知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当らない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ、待っているんだと答えた。ただ、待っている、なるほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った》
『トヨさんの新・長幼の序』は残っていた。よかった。「ちょっと高いかな」とおもって買わなかった本が、後で調べたら入手難とわかることがけっこうある。次の日行くとすでに売れてしまっていることも多い。迷ったら買う。何度も決心したはずのに、なかなか実行に移せない。
『トヨさんの新・長幼の序』には前述の小林秀雄の話の続きが綴られている。
《一流の打者とは、自分のどん底を知っている者を言うのだと思う。ともかく底までたどりついて、そこからはい上がる術を会得したものが、もう一度浮き上がれるし、一流打者になれる。ぼくが小林秀雄さんに言った「待つ」ということは、このどん底に行きつくまで待つということである》