2016/11/29

強情さが必要(一)

「人の話はどこまで聞くか」というのはむずかしい問題だ。
 助言する側はよかれとおもって、ああしたほうがいいこうしたほうがいいという。しかし助言された側からすれば、かならずしも自分に適したやり方ではないということはよくある。

 尾崎一雄著『わが生活わが文學』(池田書店)所収の「気の弱さ、強さ」は、そろそろ四十になろうというSというぱっとしない画家の話なのだが、助言のむずかしさを考えさせられる随筆である。

《Sは、友人や先輩に自分の仕事を批評されると、それをそのまま受入れる。批評は、ほめられるよりも、くさされる方が多いらしい。くさされると、Sは、なるほどと思ひ、その点を直さうとする。それまでの自分の方針を否定して、やり直したりする。
 私は、そんなことをしてゐたら、キリが無いんぢやないのか、と考へる。批評する人は一人ではない。いろんな人にいろんなことを云はれ、それをいちいち、もつともだ、と思つて、相手の批評、あるひは忠告通り、自分の仕事を直さうとしてゐたら、結局何も出来なくなつてしまふではないか——とさういふことをSに云つてやつた》

《作家は(画にしろ文章にしろ)、多かれ、少なかれ、自分が書きたいことを有つてゐて、それを自分のやり方で書き、あるひは描きたいのに決つてゐる。他人の批評や忠告に耳を傾けるのはいいが、それにコヅキ廻されてゐては、元も子も無くなつてしまふ。やはり、強情さが必要だと思ふ》

「強情さが必要」と助言されたSは「なるほどさうですね」とうなづいた。尾崎一雄は、すぐうなづかずに、すこしは抗弁してほしいとおもうのだが、その気持はSには伝わらない。

《Sが帰つてから、他人の批評に右往左往してゐたら何も出来ないことは、絵も文章も同じだな、と考へた》

 長年、わたしはこの問題を考え続けている。絵や文章だけでなく、あらゆる仕事にも、こうした問題はあるだろう。
 新人作家がデビュー作を酷評され、書くのをやめてしまった。よくある話だ。そんなことでやめてしまうのであれば、どの道、ダメだというのはありがちな意見だが、正論でもある。

 気弱な人に「気にするな、開き直れ」といっても、それができれば苦労はない。
 批評にすぐ右往左往してしまうのであれば、まずそのことを認める。弱さについて考えてみる。弱いから見える、感じる世界を書(描)く。それもひとつの道ではないか。

 自分が好きなものを嫌いな人がいる。当然、その逆もある。ただそれだけの話といってしまうのは乱暴だが、「単に好みが合わないだけではないか」と考えてみるのもいいかもしれない。

 こうした助言と批評には、「力関係」という要素が加わるケースもある。これが厄介だ。
 親と子、先生と生徒、上司と部下、コーチと選手のような、助言される側の立場が反論しづらいこともある。
 いわれたとおりにやらないと試合に出してもらえないという場合、自分が納得いかなくても従ったほうがいいのか、無視したほうがいいのか。
 強情であることが許されるかどうか。運に左右されるところもないわけではない。

(……続く)