2007/03/31

自由にならない部分

 黒田三郎という詩人のことを書こうとすると、書きたいとおもうことがあっちこっちにいってしまう。書けば書くほど混乱する。黒田三郎の存在が自分の中で大きくなるにつれ、自分の文章にたいする感覚が変わってくる。これまで無自覚だったことを自覚させられる。そういうことは本を読んでいれば、よくあることだが、黒田三郎の場合、その自覚させられる部分が、いつもよりちょっと深いかんじがするのである。

《一篇の詩を書き上げる過程でさえ、それほど作者には明瞭ではない。詩は「つくる」ものであると同時に、「できる」ものである。極端な場合は、うっかり洩らしたひとりごとに似ている場合もある。筋肉に随意筋と不随意筋があるように、われわれの精神の内部には、われわれの自由になる部分とそうでない部分とがある。そして詩はむしろわれわれの自由にならない部分に多く依存しているようである》(黒田三郎著「生活の意味・詩の意味」/『内部と外部の世界』昭森社)

 この意見はそれほどめずらしいものではないかもしれない。多かれ少なかれ詩が好きな人には、けっこうピンとくる話だとおもう。詩にかぎらず、小説や随筆にも、そういう部分はある。
 わたしが尾崎一雄や古山高麗雄の小説を好きになったのも、文章のところどころに出てくる「うっかり洩らしたひとりごと」のような部分に共感したからだ。ただ、そのことを自覚していたかというとその自信はない。文章だけではなく、人と会話していても、「うっかり洩らしたひとりごと」のような言葉はけっこう印象に残る。
 よくひとりごとはうつるというが、まったく無根拠の話ではないのかもしれない。

 もちろん、ひとりごとを書けば、いい詩になるかといえば、そんなことはない。それが可能な人は、いわゆる天才だ。
 黒田三郎の詩は、天才の詩ではない。彼がいうところの「自由にならない部分」をものすごくうまくつかいこなしている詩人だとおもう。

 詩をつくったり文章を書いたりする上で、「自由にならない部分」をどうやってつかいこなすか。コントロールしすぎてもいけないし、コントロールしなさすぎてもいけない。黒田三郎の詩は、そのさじかげんが絶妙なのである。

 わたしは「自由になる部分」をつかえば、わりと短時間で文章が書ける。でもそういう仕事の仕方ばかりしていると、「自由にならない部分」が弱ってくる。雑誌の型にあった文章ばかり書いていると、楽に書ける、早く書けるやりかたばかりおぼえてしまう。雑誌の型だけではなく、自分の型にあった文章を書きつづけていても、だんだん「自由にならない部分」が弱ってくる。
 だからちょっとずつ型を変えようとする。
 スポーツ選手が、道具を変えたり、グリップの握りを変えたりする感覚にちかいといえばちかいかもしれない。

 黒田三郎は、自分の詩のモチーフは、自分自身の卑小さ、みじめさ、自分の生活の言いようのない空しさがモチーフになっているという。それらは日常生活では、忘れていることもある。目前の仕事に追われているときも忘れる。でもそれらは心にオリのように沈殿する。

《僕自身、自分自身の卑小さに慣れ、自分のみじめさに慣れて、毎日毎日の日常生活を送っている。だが、どんなにそれに慣れて、その中に没し切っていても、突然匕首のように僕を刺すものがある。電車のなかでぼんやりしているとき、パチンコに現をぬかしているとき、それは突然僕の心の中で電光のように閃く。
 自分自身の卑小さ、みじめさというものに対する恐愕、それに対する疑い。
 それが必ずしも詩のタネになるとは限らない。心の上でのしかかるものの一部は明瞭に僕自身にもわかる。しかしその全貌はかなり曖昧である。この曖昧さが、何よりも僕を苦しめる。(中略)
 自己の卑小さ、みじめさを自分の心にはっきり焼き付けることは、或いは「心身の緊張をもって堪え難くする」かもしれない。だが心の上にのしかかるものを曖昧なままにしておくより、それははるかに「堪えられるように」なる》(「生活の意味・詩の意味」)

 鮎川信夫は、黒田三郎のことを「ぼくと対極にいた人」と語っている。その鮎川信夫が、一九八〇年の一月、黒田三郎が亡くなったころ、極度のスランプに陥り、詩をやめようとまでおもったと告白している。
 わたしがいろいろなひっかかりをおぼえ、その後、黒田三郎について誤解する要因にもなった北川透との対談は、今読むと「理解魔」の鮎川信夫にしてはめずらしく不用意な発言が多い。酒を飲まない鮎川信夫が、酔っ払いのように見える。「自由になる部分」を鍛えぬき、「自由にならない部分」までも完璧にコントロールしようとしていたかにおもえる鮎川信夫がスランプに陥った理由とはなにか。いや、本人はスランプなどではなかったといっているのだが……。

 うーん、だんだん収拾がつかなくなってきている。
 でも、もうすこし続けるつもりだ。

2007/03/30

一日のばし

 黒田三郎のエッセイを読み、詩の難解さについて、あるいは詩人の生活について、いろいろ考えこんでしまっている。
 本を読んでいて、作者の問いかけが長く心に残るのはうれしい。
 黒田三郎という詩人の存在は、この先、自分が生きてゆく上で、かなり大きなものになるかもしれない、と予感した。「これは避けて通れないぞ」とおもった。こういうかんじは久しぶりだ。今、ちょっと混乱している。

《僕に何ができるというのか
 何が
 僕がゆっくり歩くのは
 ひとつの風景のなか
 僕の胸にあざやかによみがえるのも
 それはひとつの風景なのか
 悲しみと怒りにふるえて僕が語るとき
 それはひとつのお話、つまらないお話》
   (「それはひとつのお話」抜粋。詩集『ある日ある時』)

 長年「荒地」の詩人では、鮎川信夫に傾倒してきた。鮎川信夫を読んで、黒田三郎のことを真面目な左翼っぽい詩人なのかなあとおもいこんでいた。ほんとうに誤解していた。

『定本黒田三郎詩集』(昭森社)の中に「一日のばし」という詩がある。

《一日のばし
 二日のばし
 つまらぬことも
 大事なことも
 何となく明日にまわして
 そうやって
 やっとのことで生きて来たようだ
 一日のばし
 二日のばし
 そういう
 とりかえしのつかぬ不安のなかに
 僕の生活の大半が
 ある》(抜粋)

 昔からこういう詩が好きだったかといえば、そうだったような気もするし、そうではなかった気もする。こういうだめなかんじの詩が好きな自分をどこか恥じる気持もあった。この方向に進んでいっていいのかどうか迷いがあった。

 一九四九年、結核の診断を受け、鹿児島に帰郷していた黒田三郎はT・S・エリオットやC・D・ルイスを知っていることを前提に書かれたような詩を批判し、そんなものを知らない読者にもわかる詩を書くべきだと主張するエッセイを執筆する。

《他人に何かを伝えようとしながら、他人に何も伝えることがのできない人間、このような人間が詩人と呼ばれているのなら、まったく皮肉と言うほかない》(「詩の難解さについて」/『内部と外部の世界』昭森社)

 ただしこうした黒田三郎の問いかけは鮎川信夫には届かなかった。いや、ほんとうのところはわからない。

《鮎川 黒田を戦前から知ってるからね。十八、九の頃、もう会ってるんだからさ。だけど、彼の生活や思想から、書くものの全部を理解しているかと言ったらそうじゃないでしょうね。もう、うんと遠いということだな。ただ、ぼくの率直な感じで言うと、黒田は何か途中で力を緩めちゃったというか、休んじゃったという感じがしますね》(北川透との対談/鮎川信夫著『自我と思想』思潮社)

 わたしが黒田三郎の本を読んで混乱したのは、先にこの対談を読んでいたせいもある。気にしなければいいともおもうのだが、気になるのだからしょうがない。
 黒田三郎の詩を読むと、今のわたしは理屈ぬきでいいとおもう。黒田三郎の詩について、緩めちゃったとか休んじゃったとか、そういうふうにはまったくおもわない。

 鮎川信夫と北川透との対談は、「黒田三郎の追悼をかねて、『荒地』の現在について語ってもらいたいという「現代詩手帖」の依頼によるもの」だった。
 一九八〇年一月八日に黒田三郎は亡くなった。享年六十。この対談が行われたのは、同年二月二十五日である。

《わたしは、ひどく憂鬱だった。その原因と理由については、いずれ書く機会があるだろうから、ここでは詳しく言わないが、およそ人に会い、現在の「荒地」について意見を述べるような気分ではなかった。
 石原(吉郎)、木原(孝一)、黒田と三年連続して「荒地」から死者が出たことと、長期にわたるスランプ状態が極点に達していたこととが相俟って、私は、この年の八月には本気で詩をやめようと考え、その想念に熱中するようになるが、北川氏とのこの対談は、いわばその途中にあったわけである。(中略)黒田を批判したことで、何か特別の意味があるかのようにとられたが、このときの私は、他の仲間のことを話題にしても、たぶん、こんな調子であったろう》(『自我と思想』あとがき)

 わたしは、黒田三郎のことを書こうとしながら、鮎川信夫のことを書こうとしているのか。あるいはそうかもしれない。

……この問題はまだまだ続きそうだ。

2007/03/28

鮎川信夫と黒田三郎

 やらなければいけない仕事があるのだが、黒田三郎のことが頭から離れない。洗濯物をとりこんだり、食器を洗ったり、手紙の返事を書いたり、いろいろなことをしているあいだも、ずっと引っ掛かっている。毎日のように本を読む生活をしているが、わたしはそんなに詩を読んでいるわけではない。全読書量の十分の一も詩や詩に関する文章を読んでいないかもしれない。たまに読む。そのときなにかしら心を揺さぶられることは多い。今もそうだ。
             
《今こそ私は申します
 貧しく
 無力な
 妻や母や子や妹のために

 すべての貧しく無力なものから
   小さな幸福と
   小さな平和と
   小さな希望を
     取り上げて

 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか
 夫や子や父や兄を駆り集めて
 それで
 あなた方は一體何を守るというのですか》
  (黒田三郎「妻の歌える」抜粋/詩集『渇いた心』)

 鮎川信夫著『自我と思想』(思潮社、一九八二年)における北村透との対談で、鮎川信夫は「黒田(三郎)という人は、同じ『荒地』のメンバーの中でも、ぼくと対極にいた人なんですね。あまり個人的関心とか交渉はなかったし、もう二〇年以上もほとんど付き合ってなかった」といっている。

《鮎川 だからたとえば昔、彼が「妻の歌える」という詩を書いて、ぼくもそれをちょっと非難したことがあるんですけど、それ以来、ぼくと黒田とはあまりよくないわけですよ。往き来というのはなくなっちゃったわけですけどね。彼はあの時点から全く変わってないわけですよ。今でも「妻の歌える」だと思うんです。妻の視点というものがあって、家庭を守るという妻の立場があって、そこからしか、たとえば、平和という問題も考えてないし。あるいは、どんな問題でもそうだと思うんです》

 「妻の歌える」は、日本の再軍備反対を訴える詩なのだが、冷戦時代の国家間のパワーバランスのことなんかはあまり深く考えていない。そういう意味では、この批判は鮎川信夫らしいとはおもう。
 さらに黒田三郎が小選挙区制反対という問題に熱心で、京都まで演説に行ったりしていたことについて、鮎川信夫は次のように述べている。

《鮎川 つまり政治なら政治という問題で、どういう問題が自分にとってリアルかということになってくるけど、ぼくがリアルだと思うようなことと、黒田がリアルと思うこととじゃ全然違うわけですよ。ぼくなんかだと、同じ時点でも、そんなことよりもっと大事なことがものすごく沢山あると思うわけ。ところが彼なんかが言うとね、それが刻下の一番大事な問題だと映ってくるわけなんですね、きっと。それは彼のいう市民生活か何かのレベルで政治を受け止めればそうなんだろうけど、それがものすごく切実な問題なんだろうと思う》
 
 今の感覚でいえば、ちがって当り前だとおもう。しかしそのちがいを鮎川信夫は不服におもう。鮎川信夫は、戦前の軍国主義同様、戦後の左翼も嫌っていた。全体主義という意味では同じではないかとさえいっていた。安易なヒューマニズムも否定していた。戦争がいやだというだけでは、なんの解決にもならないという意見の持ち主だった。
 話はズレるかもしれないが、黒田三郎の『死と死のあいだ』所収の「現代詩と私」で、次のような意見を述べている。

《詩を書くというのは、なりわいにはならない。萩原朔太郎は医者である生家の後援なしには詩人たり得なかったろうし、夭折したが、中原中也はどうやって暮しを立てていたろうか。巷説によると、宮沢賢治が生前手にした原稿料は五円だったという。二十年くらい前までは、歳末になると、ラジオや新聞に貧乏話の座談会がよくあったが、出席者が三人だとすれば、そのうち二人までは、草野心平とか山之口貘とかいった、いわゆる詩人であった》

 詩人が著述で食ってゆくためには、翻訳や雑文を書き、マスコミで仕事をしなければならない。
 鮎川信夫にしても北川透にしてもそうだった。

《なりわいにはならない。しかし片手間でできることでは決してない。多くの詩人というのは、この矛盾の中でその詩を書いたし、また現に書きつつある。
 戦後一年目、日本に帰って来て僕が思ったことは、詩人という遊民、風流人には決してなるまいということであった。なるまいなんて、そんな決心をしようがしまいが、その日の糧をいやでも稼がねばならない、そんな時代であった。そしてそのまま今日に至った》(「現代詩と私」)

《詩人である以前に、ひとりの人間であり、ひとりの市民であることを、詩人だからと言ってないがしろにできるわけがない。詩人という名で避けられることは、この世に何ひとつ無い、というのが戦後の僕の痛烈な反省であった。ひとりの人間であり、ひとりの市民であるという現実から、自分自身の詩を産み出すという決意だった》(「現代詩と私」)

 鮎川信夫と黒田三郎、お互いの意見はかみあっていないのだが、そこで語られていることは、どちらが正しくてどちらかが間違っているという問題ではない。ただ、「対極にいた」ふたりの詩人の往き来がなくなり、お互いの言葉が届かない関係になってしまったのは残念におもう。

……さらにこの問題については後日。

2007/03/27

僕はまるでちがって

 月曜日、昼起きて洗濯して、総武線で荻窪に行く。ささま書店とブックオフに寄って、帰りは丸ノ内線で新高円寺駅に出て、高円寺南口の古本屋巡回コースを通って、ネルケンでコーヒーを飲んで、駅前の東急ストアで買物して帰る。
 東急ストアでゆず一味を売っていたのがうれしかった。

 一昨日の高円寺の古書展で『現代詩手帖』(臨時増刊 荒地 戦後詩の原点 一九七二年一月)を買って以来、ずっとパラパラ読んでいる。この雑誌の巻頭をかざっている松原新一の「『荒地』の精神」という評論の中に、「わたしはたとえば黒田三郎の詩集『ひとりの女に』を高く評価していない。この詩集には、自他をふくめた現実にたいする根源的な精神の否定作用が希薄である」という一文があった。三十五年前の詩評にたいして、あれこれいうのもなんだけど、そういう評価の仕方もあるのかとちょっとおどろいた。

《僕はまるでちがってしまったのだ
 なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
 昨日と同じように貧乏で
 昨日と同じように何にも取り柄がない
 それでも僕はまるでちがってしまったのだ
 なるほど僕は昨日と同じ服を着て
 昨日と同じように飲んだくれで
 昨日と同じように不器用にこの世に生きている
 それでも僕はまるでちがってしまったのだ  ああ
 薄笑いやニヤニヤ笑い
 口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで
 僕はじっと眼をつぶる
 すると
 僕のなかを明日の方へとぶ
 白い美しい蝶がいるのだ》
  (黒田三郎「僕はまるでちがって」/詩集『ひとりの女に』昭森社)

 すくなくともこの詩は今でも読める。むしろ今のほうがしっくりくるかもしれない。
 いっぽうで三十五年前の松原新一の「詩人の精神、主体的真実というものは、現実にたいする鋭い否定的作用をもって第一義とするはずだ」という主張は、今、読むとちょっと違和感がある。でもこの評論のおかげで、「僕はまるでちがって」という詩が、新しくはないが、古くならない詩であることがわかったのは大きな収穫である。
 ちなみに、詩集『ひとりの女に』が刊行されたのは一九五四年である。

 黒田三郎の『死と死のあいだ』(花神社、一九七九年)というエッセイ集をすこし前に読み返したのだが、二十代前半に読んだころよりも、今回読んだときのほうが、おもしろかった。

《働く者にとって、すべてはあわただしく過ぎ去ってゆく。あわただしく過ぎ去るのは、テレビを通して知る事件だって同様である。次から次に大事件が起って、先から先へと忘れてしまう。
 われわれが感知しない日々の小さな変化は、一月たち二月たって、すべてが変ってしまってから、やっとわれわれに感知されるものとなる。見落してしまう多くのことも、そこにある。われわれはごく大ざっぱに夏だと思い、冬だと思うのである。
 馬車馬のように目の前のことしか見ない人間は、五年とか十年、あるいは二十年というようなスケールで目の前のこと以外を考えようとしない。五年たち、十年たち、二十年たって、いやでも変化を感じずにおれなくなってから、そのことに気づく。しかも、なお馬車馬のように目の前のことしか見ようとしないのである》(「死と死のあいだ」)

 テレビを通して知るのは、大事件だけでなく、季節もそうだと黒田三郎はいう。
 このエッセイを書く五年前まで黒田三郎はNHKに勤めていた。会社を辞めて、通勤路の周辺に咲く花を知ったとも書いている。詩には、時代や社会を表現するだけでなく、生活の中で見落としてしまいがちなものを気づかせてくれる効用もある。

《大都会はいまでは根無し草のあつまりである。そのなかのひとりひとりはこれからどんな根を下ろすだろうか。いや、かつての根に代るもの、それは何であろうか。
 詩とか小説とか言っても、そこにどんな個人的な繰り言が書かれているにしても、作者と読者とを結んでいるのは、目に見えぬ大きな手である。連帯である。私小説、一見愚にもつかぬような、作者の日常茶飯事が書かれている、そんな一篇の私小説が、それをよむ読者に、何かしら安堵感を与えるようなものであり得るのも、その間にひとつの手が、連帯があるからである》(同前)

 何故、愚にもつかぬような、日常茶飯事が書かれた文章をわたしは好んで読むのか。また自分もそういうものを書こうとしてしまうのか。なんとなく、だんだんそうなった。あまりそのことを深くかんがえたことはなかった。
 毎日、新刊書店に行き、古本屋に行く。仕事で新刊書を読み、趣味で古本を読む、文字ばかり読む生活を送っている。
 そんな日々を送っていると、「精神の否定作用」といわれるような鋭くて激しい文章をたくさん読めなくなる。疲れるから。体力がないから。それで疲れやすくて、体力がなくて、それでも本をたくさん読みたいという人に向けて書かれた本をついつい探してしまうのかもしれない。
 いや、それだけではない。
 黒田三郎にしても、現実に抵抗していなかったかといえば、そうではない。

《「過ぎ去ってしまってからでないと
 それが何であるかわからない何か
 それが何であったかわかったときには
 もはや失われてしまった何か」

 いや そうではない それだけでは
 ない
 「それが何であるかわかっていても
 みすみす過ぎ去るに任せる外ない何か」

 いや そうではない それだけでは
 ない
 「まだ来もしないうちから
 それが何であるかわかっている何か」》
       (「ただ過ぎ去るために」抜粋/詩集『渇いた心』)

 黒田三郎は、難解な方向に進んでゆく現代詩に抵抗していた詩人だった。詩が日常から遠ざかってゆくことに危機感をもっていた詩人でもあった。だからといって、ただわかりやすい詩を書いていた詩人ではない。

……この問題についてはまた後日。

2007/03/25

新春・彷書月刊まつり

 三月二十一日、春分の日。深川いっぷくの「新春・彷書月刊まつり」にちょこっと顔を出す。
 深川ははじめて。散歩したくなる町だ。会場に行く途中、「中華&洋食」という看板の店がとても気になった。
 この日は「なないろさんの古本入門教室」と振り市があった。いつ聞いても『彷書月刊』の田村治芳さんの話はうさんくさくておもしろい。
 その田村さんの話に、リコシェの阿部さんが「なぜ古本屋さんになろうとおもったんですか?」といった素朴な質問をぶつけまくるので、田村さんのいかがわしさ(ホメ言葉のつもり)が引き立つこと、引き立つこと。ぜひ、活字化してほしいなあ。古本屋になりたい人の役には立たないとおもうけど。

 振り市で、赤木圭一郎主演の『俺の血が騒ぐ』の垂れ幕を競り落としたのはいいが、家に帰ってひろげてみたら、ものすごくデカい。どうすればいいのか。
 助教授が出品した美内すずえの『宇宙神霊記 霊界からのメッセージ』(学研、一九九一年)を競争相手がいなくて百円で落札してしまう。うれしい反面、ちょっと肩透かし。千円くらいまでは競うつもりだったのに。この本、インターネットの古書店では、二〜三千円、高いところだと六千円前後の値段で取引されている本なのである。

《高校生のときにプロのマンガ家としてデビューした美内すずえさんは、これまでに数知れない超常現象を体験してきた。
 霊的に高められた今では、霊界と交信できるまでになっている》

 どこからどこまで本気なのか。気になって最後まで読んでしまったよ。なんとかと天才は紙一重というが、かなりきわどい本であることはまちがいない。
 長年、科学書とオカルト本を交互にくりかえし読んでいるのだが、霊とかUFOとかを信じている人は、どこまで本気なのだろう。そういうことにちょっと関心がある。本気になることによって、つまり信じきってしまうことによって、人としての柔軟さが失われてしまうことが怖いのだ。
 もしわたしがそうなってしまったら、誰かちゃんと注意してほしい。

 美内すずえが『宇宙神霊記』のような本を書いたとき、まわりの編集者はやっぱりちやほやしてしまったのではないかとおもうのである。
「すごいですね、美内先生には、救世主が見えるんですね。やっぱり先生は天才です」
「いえいえ、あなただって信じさえすれば、いつか見えるようになりますよ」
 なんかつらいなあ。でも自業自得なのかなあ。

 帰りぎわ、旅猫雑貨店の箱にあった『広告批評』(一九八六年六・七月合併号)の「東京名物評判記」をパラパラ見ていたら、「半額にしますよ」といわれたので喜んで買わせてもらう。
 電車の中で読んでいたら、巻頭に中川六平さんの写真が出ているではないか。二十年前の。しかもプロフィール付。貴重な資料だ。この号、高橋章子、中森明夫、中川六平が分担編集していたのである。

 そういえば、この日『彷書月刊』の田村さんの十八年前の長髪の写真も会場で公開された。
 うーん、たしかに安斎肇。

2007/03/21

クーヴァーと色さん

 一昨日、吉祥寺のバサラブックスの福井さん、退屈君と部屋飲みして、昼起きる。起きたら、CDとレコードが散乱している。うーん、またやってしまったか。

 吉祥寺のレコファンでAーHAのファーストアルバム(わたしの高校時代にものすごく流行した)を買って、その話をしたら、おもいのほかバサラの福井さんが食いついてきた。A−HAからパイロット、エジソンライトハウスとロック史をさかのぼり、途中からAOR講座などをやり、終電で福井さんと途中参加の福井さんの友人が帰ったあとも深夜三時ごろまで退屈君におやじロックを聴かせつづけた。

 次の日、都丸書房支店でふだんはあまり行かない奥の美術関係の棚を見ていたら『富士正晴展カタログ』(企画・監修、杉本秀太郎、山田稔、廣重聰、一九八九年)があった。
 書とか絵とかはあんまり興味がないのだけど、いい顔だよな、富士正晴。おじいさん好きにはたまらん顔だ。家や書斎の写真もいい。

 夕方、柳瀬徹さんから電話があり、じゃあ、高円寺で飲みましょうということになった。
 コクテイルが休みなので眉山亭に行く。
 カウンターに座って、長崎の平戸の話をしていたら、お店の人が「平戸の福井酒造のカピタンがありますよ」という。三十五度。さくっと飲めるけど、あとから効きそうな酒だ。ちょっとウィスキーっぽい。
 飲み屋に行く前にZQで清水潤三の『鉄道雑学事典』(広済堂出版、一九七六年)を買い、なにげなくカウンターの上に置いていたら、「うわ、なつかしい。子どものころ持っていたよ。この本」と鉄道ファンの人に見つかり、鉄トークになる。
 鉄道がらみの映画の話になり、山田洋次の『家族』をすすめられた。長崎の炭坑労働者の家族が国鉄で日本列島を縦断し、北海道の開拓村を目ざす話だそうだ。こんど見よう。

 柳瀬さんからは海外文学のことをいろいろ教えてもらっている。カタカナの名前はおぼえられないというと、紙に作家名と作品名を書いて渡してくれるのでとても助かる。
 そのメモにあったロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』(越川芳明訳、新潮文庫)をようやく音羽館で見つけ、読んでびっくりした。
 ひたすら自分が考案した野球ゲームにのめりこむヘンリーという中年会計士の話なのだが、まるで色川武大の「ひとり博打」(阿佐田哲也著『外伝・麻雀放浪記』双葉文庫)みたいな小説なのだ。
 「ひとり博打」のほうは相撲ゲームなのだが、やはり自分の考んたゲームにのめりこんで、身動きとれなくなってしまうという大筋はおなじだ。

《初日が終れば二日目を、二日目が終れば三日目をやらなくてはならないから、気持のくぎり目というものがない。そうやって星取表が埋まっていき、やがて千秋楽がくる。すると番付会議を敢行しなくてはならぬ。(中略)例えば幕内の尻で負け越すとする。しかし下が無ければそのまま据えおくより仕方がないのであり、そうした不自然さは私自身が辛うじて呑みこんで居ればよいとしても、一番一番の勝負において幕尻の力士にとっては、黒星が無意味なものになる》

 それで十両を作る。さらに同じ理由で十両の下の幕下、三段目、序二段、序の口、新序、本中と作ってゆく。

《弱ったことにはその下の下部組織が番付には作りようがない。(中略)相撲社会に飛びこんでくる全国の青年たちの育ち方から、徐々にこちらに集合してくる状態まで頭の中にいれていかないとなんとなくおちつかない気になる》

 力士の数が増えてくると、おぼえきれないので、カードを作る。番付によってカードの大きさを変え、二場所ないし三場所で一歳ずつ年をくわえる。ゲームがだんだん精緻になるにつれ、そのいそがしさは言語を絶するようになる。
 「ひとり博打」は、相撲だけではなく、野球、映画、寄席芸人のカードも作り、競輪にいたっては「四千人のカード」を作ってしまう。たんなる勝負ではなく、その四千人の選手の実生活までかんがえる。

 『ユニヴァーサル野球協会』も常軌を逸している。
 基本はサイコロゲームなのだが、主人公の球団勝敗盤を作り、花形選手や主戦投手、新人選手などを分類した一覧表を印刷している。ほかに「二盗専用の一覧表」をはじめ、「補助変数」という四球、失策、怪我などの組合わせの一覧表もある。

《選手の個人成績を算出したり、協会の記録を表に移すことに注意を集中すればするほど、勤務中にミスしがちになると、自分でも認めないわけにはいかなかった》

《ヘンリーはこの野球ゲームを創始するにあたり、手始めに、いわゆる南北戦争と再建の時代、野球の草創期から八球団を選びだし、各球団につき二十一人から成る選手名簿を作ったのだった》

《死亡者名簿の作成は保険統計表と協会人口に基づいていた。つまり、生存中のOBが千人を下まわらないように心がけたのだ》

 主人公は、ゲームにのめりこみすぎてからだが消耗してくるのだが、やめることはできない。完全にゲーム中毒だ。

 阿佐田哲也(色川武大)は一九二九年、ロバート・クーヴァーは一九三二年に生まれた。
 「ひとり博打」は一九七〇年に「早稲田文学」に発表した作品で『ユニヴァーサル野球協会』は一九六八年に出版されている(初邦訳は一九八五年、若林出版)。
 時期は『ユニヴァーサル野球協会』のほうが二年早い。偶然だとおもうのだが、どうなんだろう。

 とまあ、カピタンを飲みながらそんな話をした。
 柳瀬さんと高円寺駅でわかれたあと急に酔いがまわる。おお、ぐるぐるだ。ううー。

……今日は休肝日にします。

2007/03/19

よるひる古本市

 日曜日、昼、阿佐ケ谷に行く。風が冷たい。歩いていくつもりだったが、電車に乗ってしまう。
 よるのひるねの一箱古本市をのぞくと、南口のふるほん屋の助教授が店番をしていた。川崎ゆきおの『レトロ帝国の逆襲』(河出書房新社)、『東郷健の突撃対談 著名人15人がふと洩らしたホントのこと』(雑民の会出版部)などを買う。いい買い物ができた。
 帰り際、レジのちかくの箱にさそうあきらの『マエストロ』(双葉社)の二巻がある。出てたんだ。知らなかった。一巻が二〇〇四年の八月だから、二年半ぶりの続刊である。助教授の出品。おまけしてもらう。

 そのあと阿佐ケ谷北口の古本屋をまわり、一番街の風船舎に寄ると、ちょうど読みたいとおもっていた松山俊太郎の『インドを語る』(白順社)があった。
 神田美学校の講義をあらためて構成した本なのだが、あまりの話の広さと深さに読んでいると知恵熱が出そうになる。
 「不可説」という数は、〈一〇の三十七乗〉桁とあらわすことができるのだが、人類がはじまって以来の本の活字の数よりもはるかに多い桁なのだそうだ。わけがわからない。
 いい店だなあ、風船舎。阿佐ケ谷散策の楽しみがふえた。
 帰りはガード下を通って歩いて帰る。

 家に帰って、夕飯を食い、ごろごろしていると、阿佐ケ谷在住のミュージシャンのオグラ君から飲もうよという電話がかかってくる。
「あれ、今年飲むのはじめてだっけ。じゃあ新年会だ」
 高円寺庚申通りの鳥舎に行くと、一階が満席で二階席(ゲームルームみたいになっている)に案内され、とりあえず、高円寺在住の友だちを呼んで、結局、閉店まで飲みつづけることになった。
 オグラ君「あと地球は五十億年しかもたないんだよ。だから好きなことして生きるしかないよ」といいだす。
「でも今の宇宙は四回目か五回目って話があるの知ってる?」とわたし。
 ビッグバンがあって宇宙が膨張してまた収縮してまた膨張して……。そういうのをくりかえしているという説があるのだ。
「前の宇宙のときも、もしかしたら今と同じようにこうやって酒を飲んでいたかもしれないんだよ」
「じゃあ前の宇宙のときにもホッピーはあったのかよ」
「たぶんあったんじゃないかなあ。忘れたけど」

 生まれ故郷も齢も職業もちがうのにいつの間にかいっしょに飲むようになって、酔っ払って他愛もない話をしている。ときどきそういうことを不思議におもう。

2007/03/16

古山高麗雄さんのこと

 先日、友人から「私のしごと館 JOBJOB WORLD」というホームページを教えてもらった。「関心から探そう!」の「文章・出版・ジャーナリズム」を選び、「文章を作成・編集する」という項目を押す。そこから「小説家」を選ぶと、次のような説明が出てくる。

《小説には、純文学小説、歴史小説、ミステリー(推理)小説、SF(Science Fiction : 空想科学)小説などがあります。自由な構想力で、登場人物の言動や取り巻く環境・風土を描写して、読者を非日常的な世界に誘い込むという小説を書くのが、小説家です》

 問題はその先だ。“小説家をやっている人の体験談を聞こう”というコーナーがあって、なんと、そこに古山高麗雄さんが登場するのだ。しかも映像付である。
 そのタイトルからしておかしい。

《経験30年 「才能の不足に死にたくなる」 古山高麗雄さん》

 おそらくこのホームページは、若い人たちに自分の希望する職業につくためにはどうすればいいかを教えようという趣旨で作っているとおもうのだが、いきなりこれである。
 古山さんが亡くなるだいたい二年前のインタビュー、たぶん八十歳くらい。
 古山さんのコーナーにはこんな言葉がそえられている。

《ある程度書くと、重労働したあとみたいに、くたくたに、くたびれます。
 何故くたびれるかというと、自分の才能の限界を超えようとするからです。書いているうちに、思っていることがこの表現でいいのかどうか、自分自身気に入らないこともあります。希望通りなかなか進みません。そうすると、苦しくて苦しくて「こんな程度の作家なら、やめた方がましじゃないか」と思うこともあります》

 体験談の映像(約四分)でも、小説家になることのむずかしさしか語っていない。

(以下、その要約)

……たまたま純文学作家のなかにも収入の多い人がおりますけども、そういう人はごく稀な人です。よほど才能があって運に恵まれなければなかなかなれません。
 懸賞に応募して、それがきっかけになって作家になる人もいますけど、それも狭き門ですよね。また当選したらその人はかならず保証されるかといえば、保証されません。
 なんとか文学賞に当選したけども、それっきりになったという方は大勢いらっしゃる。
 小説というのはかならず誰でもひとつは書けるといいますね。でもそれは職業として書き続けていくということとはちがいますよね。
 ルナールの日記に、才能というのは、気のきいた台詞がいえたり、表現ができたりするというようなことではなくて、牛のように歩んでいける、たくさん書けるのが才能だということを書いてありますね。やっぱり持続性がないとだめですよね。
              *
 古山高麗雄さんの『私がヒッピーだったころ』(角川文庫、『小説の題』冬樹社を解題)に「職業作家としての不安」というエッセイが収録されている。

《小説を書き始めてから、私は自分に欠けていたものが、あまりにも多くかつ大きいことに気がついて、愕然としました。
 これで職業作家としてやっていけるのだろうか、と不安でした。
 小説家にもいろいろな型があって、まるで蚕が糸を吐き出してでもいるように、次から次に言葉がつながって出てくるような恵まれた才能をもっている人もいるようです。(中略)そうかと思うと、もっと短い小説でも、長い日数をかけて、考えに考えあぐねながら、骨身をけずるような書き方をする人もいます。(中略)そして私はどんな書き方をするかというと、体をこわしてしまうほど考えあぐねたり、格闘したりするほどではないにせよ、やはり考えあぐねるタイプのような気がするのですが、どうも私が考えあぐねるのは、私が思考を好む体質の持主だからということではなくて、知らないことが多過ぎて、いちいちつっかかって、そこから進めなくなってしまうといったようなことのようです》

 古山さんの作品が好きな人は、考えあぐねながら書いた文章が好きなのだとおもう。
 わたしは古山さんの小説でなにがいちばん好きかときかれると『身世打鈴』(中央公論社)と答えている。小説の途中で、答えの出ない問いを考えはじめてしまい、わからない、わからないと悩みはじめてしまう。小説なのか、随筆なのか、よくわからない作品である。

《私は、過保護といわれる今の若者たちを批判するわけには行かない。私自身、過保護であって、甘ったれていたのだから。そのことに気がついたのは、何かを得たということになるだろうか? だとしても、それを得た代わりに、自信を失ったとしたら、それでも私は何かを得たといえるだろうか?
そんなことを私は、戦後ずっとぐだぐだと思い続け、結局はわからないのである。
そのぐだぐたした取り留めのない思いの中で、私は、人は運がよければ恵まれるし、運が悪ければ恵まれない、そしてその運は、自分ではそうしようもないものだ、と、ずっと思っている》

《小説、と言っても多様だが、私は小説を書く場合、いつも、他人をどこまで想像できるかやってみようという考えにとらわれる。しかし、うまく行ったためしがないのだ。
私は、自分の限界を、実は知っているのだ。だからいっそう、その志向にとらわれてみようとする。ムキになってみても、ダメなものはダメだと承知していて、だからなおムキになる。私は、そういうところに落ち込んでいる》

《小説を書いていれば、小説とは何か、と考える。小説でなければ表現できないものとは何か。小説にしてしまうと表現できなくなりものは何か。私は何か言うために小説を書こうとしているのか。小説を書くために何か言おうとしているのか。そんなことを、私はいろいろ考えて、結局、結論が出ない場合が多いのである》

 昔、古山さんの仕事場に遊びにいったとき、運、不運についてたずねたことがある。
「あなたはまだ若いのだから、私のような運命論者になってはいけません」
 たしかそんなことをいわれた。古山さんは五十歳も年下のわたしにたいしても「自分には才能がない」といいつづけていた。とはいえ、さりげなく、「作品の質を落としてまでは書きたくない」ともいっていた。

 古山さんは、たしかにすらすらと文章を書く才能はなかったかもしれない。失礼ながら、ベストセラー作家になるタイプでもなかったとおもう。
 五年前の二〇〇二年三月十一日に古山さんが亡くなり、しばらくしてから「sumus」同人の南陀楼綾繁さんから[書評]のメルマガの「全著快読 古山高麗雄を読む」の連載をたのまれた。

 その前は柳瀬徹さんが「全著快読 山田稔を読む」を連載し、今は扉野良人さんが「全著快読 梅崎春生を読む」を連載中だ。
 作品の数は多いけど、似たような読後感の作品ばかりで、わたしの連載は二年半続いたが、五回目くらいでもう書くことがなくなってしまった。前任者の柳瀬さんに愚痴をいうと、笑いながら「苦しんでください」といわれた。
 ただ、古山さんの本を五十冊ほど読み続けているうちに、答えの出ないテーマを持っているということは、それ自体、才能なのではないかとおもうようになった。

 わかることだけ書いていると、あっという間に書くことがなくなってしまう。

 絶筆となった『人生、しょせん運不運』(草思社、二〇〇四年)でも、古山さんは堂々めぐりをつづけている。

《とにかく、わからないことだらけです。わからないことだらけで、結局私も、近々死んでしまいます。それでいいのだ、と思います。
 わからないのは、短い将来や他人のことだけでなく、過去のことも、自分のことも、実は何もかもわかっていないのではないか、と思われます。
 この年になると、過去を思い出すことぐらいしかすることがない。また、私は物書きだから、物を書くことしかすることがない。それで、ろくにわかっていないのに、過去を思い出しては、ああでもない、こうでもない、と思いながら私小説を書いているわけですね》

 古山さんの本を読みはじめて、十五年くらいになるが、いまでもよく読み返す。読みかえすたびに、わからないことが増える。
 読み終えたあとも、古山さんがわからないといっていたことを自分なりに考えるたのしみがある。

 運不運とは? 戦争とは? 他人の痛みとは? 小説とは? 文章を書くとは?
 そんな問いに迷いこんで、古山さんとはちがったことを考えながら、古山さんほど考えあぐねたわけでもないのにわかった気になってはいけないとおもう。

2007/03/13

箱根山

 三月十一日の日曜日、「神水会」(神保町で水曜日にお茶を飲む会の略)のメンバーである岡崎武志さん、毎日新聞のKさんと一泊二日で箱根に行ってきた。
 現地集合だったため、新宿からスーパーはこねに乗って箱根湯本まで、それから箱根登山鉄道で強羅へ向ったのだが、車内は韓国人と中国人(香港人かもしれない)のツアー客が占拠していて、日本語を話す人がまったく乗っていない。

 箱根の強羅に到着してからすこし時間があったので、ふらふら歩きまわっていたのだがどうやって時間を潰していいのかわからず、途方にくれる。当り前だけど、新刊書店も古本屋もない。
 入場料五百円払って、強羅公園というところに行ってみたのだが、どうなんだろう。箱根まで来て、熱帯植物園でブーゲンビリアを見るというのは。しかも公園内はカップルと家族連ればかりで、ベンチに座って文庫本を読んでいたら、三組のカップルから「すみません、写真撮ってくれますか」と声をかけられ、悲しい気持になる。
 行かなかったけど、ほかにもなぜか「星の王子さまミュージアム」といった“箱根らしさ”をまったく感じることのできない施設がやたら目についた。
 そんなものを建設する金があるなら、ゆっくりくつろげる喫茶店と地元の酒を出してくれる飲み屋をいっぱい作ったほうが、よっぽど人を呼べるのではないかとおもう。
 なぜ箱根で『星の王子さま』なのか。まだ獅子文六の『箱根山』ミュージアムならわかるのだが……。
 ちなみに『箱根山』(新潮文庫)は、昭和三十年代、小田急(東急)と西武による「箱根山戦争」という観光戦争を描いた小説だ。当時、東急会長の五島慶太と西武の堤康次郎が箱根の観光ルートをめぐって、泥沼の争いをくりひろげていた。そのミュージアムには、お互いの会社のバス停の標識を投げあったり、箱根のゴルフ場やホテルの建設を妨害しあったりする社員たちのろう人形などが展示してある。
 誰も見にこないか。
 でも箱根はひとり旅には不向きな場所であることをつくづくおもいしらされた。
 しかたなく、旅館から歩いて十五分くらいのところにあるコンビニでサントリーの角のミニボトルと南アルプスの天然水を買って、昼の三時からひとりで酒を飲んでいた。

 そのうちKさんと岡崎さんがやってきた。
 これからの日本の出版のことや森進一の「おふくろさん」問題について語り合っているうちに夕飯の時間になり、そのあとすこし飲んで、すぐ寝る。
 わたしは夜中の三時頃に目がさめてしまい、旅館のロビーにあった萩尾望都の漫画を五冊くらい読んだ。『スター・レッド』(小学館文庫)はおもしろかった。

 七時半に朝食。Kさんは名古屋に出張、岡崎さんは昼から仕事ということで、そのまま解散。
 わたしも岡崎さんといっしょに帰ることにした。
 今回のいちばんの旅に思い出は、箱根登山鉄道だろうか。スイッチバック方式に電車とはおもえない急カーブの連続。しかも帰りは貸し切り状態だった。岡崎さんは運転席の真後ろの席を陣取って微動だにしない。
 途中、小田原あたりをすこしぶらぶらしようかというような話もしていたのだが、箱根湯本駅に着いたら、ちょうど新宿行のロマンスカーが止まっていたので、それに乗り込んだ。岡崎さんに車内販売のコーヒーをごちそうになって、古本の話をしているうちに、午前十時すぎには新宿駅に着いてしまった。

 知人に「箱根ってなにをするところなの?」と聞いてみたら、「とりあえず、山に登って、あとゴルフしたり、テニスしたりすればいいんだよ」といわれる。

 そうだったのか。

2007/03/10

ペソアのトランク

 「退屈男と本の街」というブログはほんとうにいろいろな人に読まれているんだなあ。
 先日、退屈君がうちに遊びにきたときに、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の話をしたときのことを彼が日記に書いて以来、「ある日本人とペソアについての仮説って何?」という問い合わせが殺到した。殺到は……ちょっと大げさか。でも立て続けに三人から同じ質問を受けた。

 学生時代、図書館でフェルナンド・ペソアの『ポルトガルの海』(池上岑夫編訳、彩流社、現在は増補版が出ている)という詩集をたまたま読んでたちまち魅了された。この詩人がアルベイト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスといった複数の異名をもち、それぞれ別人格で詩を書き、生前は無名でトランクの中に数万枚の原稿を遺していた……というエピソードを知り、世界にはものすごい詩人がいるもんだとおもった。
 なぜ『ポルトガルの海』を読んだかというと、ちょうどそのころ『大航海時代』と『ネオアトラス』というリスボンの貿易商が世界中を探索するゲームにのめりこんでいて、わたしの貴重な二十代はこれらのゲームに数百時間以上費やし……まあ、そんなことはどうでもよろしい。
 でもそれ以来、ポルトガルの文学にはずっと(細々と)興味をもちつづけているのだが、今年刊行されたフェルナンド・ペソアの『不安の書』(高橋郁彦訳、新思索社)という題名を見て、「こ、これは」とおもったのである。

(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収)

2007/03/06

サライ

 JR総武線(各駅)のホームで先に新宿方面が来たら中野、三鷹方面が来たら阿佐ケ谷に行く。ときどきそんなちょっとした賭けをする。
 高円寺には大きな新刊書店がないので、近くだと阿佐ケ谷の南口すぐの書楽と駅ビル(ダイヤ街)の文公堂書店、あるいは中野のあおい書店とブロードウェイの明屋書店まで行かざるをえない。
 書楽やあおい書店は、新宿の紀伊國屋書店やジュンク堂ほど大きいわけではないが、新刊の文芸書と文庫と新書をチェックしに行く分には十分だ。夜遅くまで営業しているのも助かる。それに新宿とちがって、中野か阿佐ケ谷ならそのあと古本屋をまわる楽しみもある。
 今日は新宿方面の電車が先に来たので中野に行くことにした。
 あおい書店で扶桑社新書を一通り立ち読みし、中野ブロードウェイセンターの三階の明屋書店、まんだらけ、タコシェ、二階の古本屋というお決まりのコースを通って、北口ガード沿いのぽちたま文庫によって、奥の扉でコーヒーを飲んで帰る。
 結局、買ったのは『サライ』の最新号(特集・吉行淳之介)だけ。

 この特集の「発掘! 幻の処女作」は、文字通り、幻の作品(散文詩)が掲載されていた。その題は「星が流れつつある」(一九四四年)。
 吉行淳之介が二十歳のころの作品である。
 旧制静岡高校時代以来の友人が保存していたものだという。
 これだけでも買いだ。写真がたくさんあるのもいい。そしてまたいい写真が多いのだ。幼少のころの写真(エイスケとあぐりと祖母といっしょに写っている)、バーで飲んでいる写真、花札や麻雀をしている写真、愛車のかたわらで安岡章太郎といっしょに撮った写真、山口瞳との対談風景まで……。吉行淳之介のカラーの写真はけっこうめずらしいかもしれない。ファンにとっては永久保存版になるとおもう。「吉行淳之介作品を読む」では、わたしが編集したちくま文庫のエッセイ・コレクションも紹介されていた。

 学生時代、わたしは吉行淳之介の家に行ったことがある。いきなり住所を調べておしかけたのだ。あとにも先にもそんなことをしたのは一度だけだ。
 おもいだした。岡山出身の友人が大手まんじゅうを持ってきて、「これ、吉行淳之介さんの好物なんだよ」といったら、「もう一箱やるから、これ持って会いに行ってこいよ」とけしかけられ、「わかった、今から行ってくる」と二子玉川に向ったのである。

 そして玄関まで行って、「これ、大手まんじゅうです」といって名前もつげずに立ち去った。
 あぶないやつが来たとおもわれたにちがいない。
 しょうがないね。若いってことは。

2007/03/05

若い荒地

 日曜日、起きたら昼の三時だった。寝癖がひどいことになっているが、帽子をかぶって、顏も洗わず、髭もそらず、鼻毛も切らず、西部古書会館の二日目に行く。
 寝ぼけた頭で自分がどんな本を買うのか試してみたかった……というのはウソで、頭がぼけているので、古本でも買えば目が覚めるかなとおもってわけである。
 二日目の午後三時すぎとなると、ずいぶんゆっくり本を見ることができる。
 パラディさんの出品した鮎川信夫著作集の「戦中作品」の巻が格安で売っていたので、ありがたく買わせてもらう。
 先日、田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)を復刊されたので再読していたら、鮎川信夫の戦前の日記(未発表)がむしょうに読みたくなったのだ。


(……以下、『活字と自活』本の雑誌社所収) 

2007/03/01

少年

 山口瞳の『父の晩年』(河出書房新社、二〇〇七年一月)には正直まいった。
 単行本未収録作品を読むと、「なぜこの作品をいれなかったのか」とかんがえる。この本の中の「少年」を読んでいたら、作品の完成度うんぬんをかんがえること自体、バカバカしい気がした。うむをいわさぬというが、この短篇はその最たるものだ。

《神様になりたいと願った。
 実は、そういう書き出しで、八年前に、小説を書いたことがある。私が初めての短篇集を出版して貰うときに、その小説も候補にいれておいた。小説の出来はよくなかったのだけれど、短篇集にいれてもいいぐらいに思っていた。
「これは駄目ですか」
 私は、女の編集者に言った。
「どうもね……」
 彼女は、掴みにくい表情で言った。老獪にしてシャープである》(「少年」)

 「神様になりたいと願った」という書き出しの「神様」という短篇は、『愛ってなに?』(新潮小説文庫、一九六八年)に収録されている。ところが、『愛ってなに?』(新潮文庫、一九七七年)には入っていない。文庫では『谷間の花』(集英社文庫、一九八〇年)で読める。
 昨年、近鉄鈴鹿線沿線にある田舎に帰省したとき、父の本棚をあさっていたら、新潮小説文庫版の『愛ってなに?』を見つけた。新書サイズで、柳原良平の装画も美しい。
 『愛ってなに?』(新潮文庫)とまったく同じだろうとおもっていたら、収録作がちがう。細かい話かもしれないが、わたしはちょっとおどろいた。新潮小説文庫版は長屋にいたころ、父の本棚にあったのだが、十数年前、今の集合住宅に両親が引っ越してからは見かけなくなっていた。
 三年くらい前に父と飲んでいるとき、ふと「『愛ってなに?』の単行本なかったっけ?」と訊いたら、「知らん」といわれた。それがこのあいだ帰省したときにはあったので、「これ、前なかったよね」というと、また「知らん」。
 父は語彙が乏しい。
「これ、もらうよ」
「ああ」
 かくしてお宝アイテムを手にいれた。

 話はそれたが、山口瞳の小説では「神様」がいちばん好きだ。一人の作家にとって一生に一作というような作品だとおもっている。
 『父の晩年』に収録された「少年」も、「神様」とよく似た作品だ。「少年」のほうはすこし混乱気味のところもあるが、そういう意味では、「少年」のほうがわたしの好みかもしれない。いや、甲乙つけがたい。

 徴兵検査が迫り、まもなく軍隊に入る。少年は軍隊に入れば、死ぬとおもっている。

《あと一年の生命というときに、人は何を考えるだろうか。私は、自分の短い一生に辻褄を合わせようと思った。どうやって辻褄を合わせるか。あまりにも短か過ぎるストーリーであるが、オチをつけなくてはいけない》(「少年」)

 追いつめられた少年は、いろいろ複雑な感情を経由して「神様になりたい」とおもいつめるようになる。それから月日が流れ、中年になり、罪悪感、羞恥心がうすれてゆく。
 「神様」という短篇でも、《痛くはないのか。お前の心は。痛みを感じなくなったのか》と主人公が自問する場面があるのだが、「少年」のテーマも同じである。
 罪悪感、羞恥心から解放されたい。後ろめたくない生き方をしたい。山口瞳にいわせるとそれが「神様になりたい」なのだ。
 わたしは父と向きあうと、いつもそういう気持になる。この人は、嘘というものをついたことがないのではないか。不正を働いたことがないのではないか。
 なにを考えているのかわからない。酒を飲んでもまったく酔わない。とにかく喋らない。欲がない。バカみたいに穏やかで退屈だ。
 表題作の「父の晩年」に描かれる山口瞳の父とは、似ても似つかない。

《鎌倉には資産家が多く、戦犯などで遊んでいる事業主が大勢いた。これを狙うヤクザ者の数も多かった。父も狙われたほうの一人である。いったい、父はどのくらいの金を捲きあげられたのだろうか。当然むこうは細工してくる。父のような男には、それが見破れない。
 私の家には、ついに、ヤクザ者が入りびたるようになった。ヤクザ稼業の最大の仕事は、旦那衆を見つけて、これをしゃぶりつくすことである》(「父の晩年」)

 「父の晩年」は、父の実像にせまった長篇『家族』(文春文庫)の二年前に書かれた短篇である。だから内容も重複している。

《「どんなことがあっても、根拠のない馬券を買うわけにはいかない」
 私は、父のこの言葉が好きだった。もしかしたら、これは、父が私に遺してくれた唯一最大の教訓であるかもしれない》(「父の晩年」)

《「どんなことがあったって、根拠のない馬券を買うわけにはいかない」
 私は父のこの言葉が好きだ。もしかしたら、これは父の遺した唯一最大の教訓であるかもしれない》(『家族』)

 こんなふうにほとんど同じ文章も出てくる。「父の晩年」は、山口瞳の読者ならどこかで読んだことのある話ばかりだとおもう。しかしうむをいわせない。うむをいわせぬ小説はからだに響いてくる。あたまの中が軽くしびれ、読後しばらくぼうっとしてしまう。
 この感覚が味わいたくて、わたしは小説を読む。仕事が手につかなくなるくらいぼうっとなってしまうような作品が読みたくて、毎日新刊書店と古本屋をまわる。『父の晩年』は条件反射で買った。「父」と「山口瞳」という文字がふたつ並んでいたら、わたしはなんだって買うだろう。

 わたしはこのふたつの単語にとても弱い。