『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)にアンディ・ルーニーの『人生と(上手に)つきあう法』(井上一馬訳・晶文社)の書評が収録されている。この話を書くのは何度目だろう。
アメリカのコラムニストは政治などについて論陣を張る「有識者タイプ」と生活問題を扱う「人生派タイプ」に分かれる。
鮎川信夫は、この分類について、「評論家と随筆家の違い、といえば分かりやすいかもしれない」と補足し、「人生派」の代表としてアート・バックウォルト、マイク・ロイコ、アンディ・ルーニーの名前をあげた。
人生派コラムニストは、作者の個性、文章の持ち味、ユーモアと機知が問われる。
個人の感覚(好き嫌い)を大切にし、今、自分の立っている場所から世界を切る取る。
日本の私小説もそうだ。またアメリカのコラムニストのとぼけたかんじやしれっと嘘をつくかんじは、第三の新人のエッセイに近い。
そう直感したとき、世界がすこし広がったとおもった。
アメリカのコラムの形式だと、自分の書きたいことが全部できるような気がした。
『マイク・ルピカ集 スタジアムは君を忘れない』(東京書籍)のピート・ハミルの「序」では、「自分の声」について次のように説明している。
《言ってみれば、これは強烈な右のパンチを繰り出すことができるとでもいった、持って生まれた才能なのだ。教えられてできるものではないし、身につけようとして身につくものではない》
「自分の声」=「特別な才能」なのか。
わたしは特別というより、失われやすい資質ではないかと考えている。また「自分の声」という才能は、何かをした量に比例して伸びる力ではない気がする。
文章の技術面を軽んじるつもりはない。ただ、そうした技術は齢をとってからでも伸ばせる。
でも「自分の声」は、いちど失ってしまうと取り戻すことは至難である。
だからこそ、表現をする人間にとって生命線になる。
「自分の声」は生きていく上では支障をきたしたり、周囲との摩擦の原因になったりもする。「自分の声」は、独断や偏見と紙一重……というか、ほとんど同じといってもいい。
(……続く)