前回、「続く」と書いたあとも、しばらくこの話を書き継いでいた。ところが、時間が経つにつれ、「なんでこんなことを書いているのか」というおもいにとらわれてしまった。ちょっとした自己嫌悪に陥った。それで一晩文章を寝かせているあいだに、すこし前に、小泉「原発ゼロ」発言のことをあれこれ考えていたことをおもいだした。
わたしは週刊誌であのスピーチを読んで感心した。同時に、小泉純一郎元総理の発言だからこそ、あれだけ注目されたのだということについても考えさせられた。
おそらく他の人が同じことをいっても、こんなに話題にはならなかったとおもう。
正しい意見をいっているだけでは伝わらない。
同じ元総理の肩書の別の人も似たような主張をしているが、その説得力や影響力はまったくちがう。
では、説得力や影響力とは何なのか。そういう疑問が頭の片隅にひっかかっていたのだ。
強引に話をもとに戻す。
三十歳のときにペンネームを変えようとおもったが、変えなかった。そのかわり、主語を「私」から「わたし」に変えた。
当時、私小説の文体でアメリカのコラムのようなものが書けないかと試みていた。アメリカのコラムといっても千差万別だが、鮎川信夫が“人生派”と評したコラムニストは、私小説にも通じるという確信があった。
私小説は(ごく一部の)古本好きのあいだでは、根強い人気がある。
たぶん、少数派向けの文学なのだろう。いつの時代にも少数派のための文学はある。またそれを必要とする人もいる。わたしもそのひとりだ。
でもアメリカのコラムはちがう。
何百紙もの新聞に記事が配信されるような有名コラムニストの発言は大きな影響力をもっている。
しかしその発言の中には日本の私小説にちかい感性がある。
アメリカのコラムニストの著作を読みはじめたとき、わたしは彼らのことをまったく知らなかった。
生まれた時代も国もちがうし、どこの誰だかわからない彼らのコラムのどこに魅かれたのか。どんな言葉に気持をゆさぶられたのか。
それがわかったら、自分のことをまったく知らない人にも届く文章が書けるのではないか。
(……続く)