三十歳になって、文章の主語を「私」から「わたし」に変えた。瑣末なことかもしれないが、わたしにとっては大きな変化だった。
「私」が主語の文章と「わたし」が主語の文章では意識がちがう。そもそも主語を「わたし」に変える以前、商業誌ではほとんど主語なしで文章を書いていた。
「主観はいらない。情報を書け」
編集者にそういわれ、ずっと違和感をおぼえていた。違和感をおぼえた理由は一読者としてそういう文章が好きではなかったからだ。情報を書くにせよ、好き嫌いはある。屁理屈をいわせてもらえば、「主観はいらない」という意見だってその人の好き嫌いではないのか。
また、語尾を「おもう」「気がする」「かもしれない」と書いて、よく怒られた。「断定できないようなことは書くな」というのもひとつの意見だろうけど、自分には断定調の文章がしっくりこなかった。どうしてあやふやで曖昧な気分を書いてはいけないのか。そういう文章に共感する人もいるのではないか。すくなくとも自分はそうだ。
でもそのことを自信をもって言い切ることはできなかった。
そうこうするうちに、アンディ・ルーニー、マイク・ロイコ、ビル・ブライソンといったアメリカのコラムニストを知った。
自分の視点、あるいは自分の日々の生活から世の中を切り取る。私小説風のコラムもあれば、身辺雑記風のコラムもある。政治も経済も科学もスポーツも「わたし」という立場から書くことができる。しかも文句なしにおもしろい。
今の自分は未熟でヘタクソだから通用していないけど、方法論はまちがっていない。
だけど、わたしは「おまえ、誰やねん」という存在でしかない。
無名の書き手が「わたし」という主語をつかえば、どうしても「わたし」の説明がいる。
三十歳、フリーライター、高円寺在住。就職経験なし。趣味は古本と中古レコードと将棋。食事は自炊。車の免許と携帯電話はもっていない。朝寝昼起。ほとんど家でごろごろしている……。
毎回、冒頭で自己紹介するわけにもいかない。
そんなこと別に知りたくないという人もいるだろう。でもどこの誰だかわからない人の読んだ本の話や音楽の話だって知りたくない人もいるとおもう。
何かを語ろうとすれば、結局、自分を語ることになる。たぶんそのとおりだ。
三十歳のころのわたしはそうおもうことができなかった。
(……続く)