ピート・ハミルは、一流のコラムニストをソリストにたとえ、マイク・ルピカには「自分の声」があるといった。
いっぽうルピカのコラムは「表現形式が不完全」とも評している。
日刊の新聞にコラムを発表する場合、時間と字数の制約によって、どうしても不十分な原稿になる。
《たいていの場合コラムニストは、全体を断片でもって象徴的に言い表すというまやかしの手法を身につけるものだ。アフォリズムを多用し、最悪の場合には安易な近道やマンネリズムに陥ることになる》
そんな中、「驚いたり恐れたりすることへの感受性」を保ち続けること——それが一流のコラムニストの条件だといっている。
時間がなく、不完全で不十分な文章を書いてしまう。ピート・ハミルは「大打者だって一〇回打席に立って七回はしくじるものだ」という。
レギュラーであれば、凡打しても次の打席がまわってくる。一軍半の選手は一打席一打席が勝負になる。
そうした状況で「自分の声」や「感受性」を保ち続けるのはすごくむずかしい。フリーライターの多くは時間と字数の制約だけでなく、お金もない。
妥協や保身によって「自分の声」は簡単にすり減ってしまう。
わたしが詩や私小説に耽溺したのはそういう時期だ。
とにかく「自分の声」を持った人々の言葉に触れたかった。「自分の声」を持ち続けている秘訣を知りたかった。
山口瞳の男性自身シリーズの『変奇館の春』(新潮社)に「私の駄目な」というエッセイがある。
生花、書、絵、俳句、短歌と自分の不得手なものをあげ、次のように語っている。
《書について言えば、うまいからいいというようなものではない。達者になれば達者になったで目をそむけたくなるような字を書く人がいる。字がうまくなったかわりに品格を失ってしまったということがある。絵だってそうだ。俳句でもそうだ。いつのまにか、大道で売る表札の字になり、ペンキ絵になり、横丁の宗匠になってしまって、つまり、感動というところから遠くなってしまう》
山口瞳はここで「品格」という言葉をつかっている。
うまくなることで何かを失うことがある。わかりやすさと引き換えにつまらなくなる。
かといって、下手で難解なものがいいという話ではない。
そんなに単純な話ではない。
(……続く)