2017/10/10

わたしにはわからない

 臼井吉見著『自分をつくる』(ちくま文庫)を読む。忘れられた作家というほど、無名ではないが、もうすこし読まれてほしい。大事な提言をたくさん残している。

 この本の第三部の「人間と文学」という講演の中でこんなエピソードを紹介している。

 小学校四年生の作文に、子どもが自分の家の話を書いた文章があった。
 うちでは、お父さんがあたたかいご飯を食べ、お母さんは冷やご飯を食べる。いつもお父さんが先にお風呂に入り、お母さんと自分は後から入る。
 その後、「ほうけんてき(封建的)」という言葉が出てくる。
 先生はこの問題を取り上げ、他の生徒にも「みんなのうちではどうか」と作文を書かせた。
 すると、ほとんどの生徒が、判で押したように「私のうちも、ほうけんてきだ」と書いてきた。
 臼井吉見は、そのことを薄気味悪くおもう。いっぽう、クラスでひとりだけ「わたしにはわからない」という文章を書いてきた女の子がいた。

《お父さんは外に出て働いているのだから、おふろをわかしても、お父さんに先に入ってもらうことは、自分はうれしい。そして、お母さんがいつも冷たいご飯を食べなければならないというきまりはない。たくさん残っているときは、チャーハンにしてみんなで食べる。しかし、たいていは、お母さんがひやご飯を食べ、おふろにはお父さんが先に入る。それがどうしていけないのか、わたしにはわからない》

 臼井吉見は「ぼくはこの作文をよんでほっとしました」という。他の生徒は「ほうけんてき(封建的)」という言葉をトランプのジョーカーのようにつかっている。

《それをちょいと出すと、みんなまいっちまう。(中略)これを一度使い出すとこたえられない。信州ことばでいうとコテエサレナイのです。そういうコテエサレナイことを覚えたら、もう、ものなんか考えようとしなくなる》

「封建的」という言葉でわかったような気になったり、相手を黙らせたりする——そういう癖がついてしまうと人はものを考えなくなる。臼井吉見は、わからないまま、考え続けることの大切さを語る。

《封建社会には、いろいろの点で、不合理きわまるもので、いまそんなものが残っていたのでは、こまるわけだけれど、しかし、封建社会というものがあったからこそ、これをジャンプ台にして、ヨーロッパも日本も近代的な社会に飛躍することができました》

 この作文の授業の前に、臼井吉見はタイを訪れ、政治家で作家のククリット・プラーモートに会っている。彼は、日本には徳川三百年という封建社会の蓄積があったが、タイにはそれがないといった。
 封建社会を経ずに近代社会を作る。そんな困難な課題に取り組んでいる国の人たちがいる。

「封建的」のような符牒、レッテルは使い続けているうちに効力を失ってしまう。気をつけたい。