古い本を読むときは、本の刊行時の時代背景を考慮する。あとこれは古本にかぎった話ではないが、とりあえず、書かれていることが正しいかどうかはなるべく保留する。
そう心がけているつもりなのだが、よく忘れてしまう。
ここのところ、占領期に関する本を読んでいるが、今さらながら時代背景が不明瞭であることに気づいた。
臼井吉見著『あたりまえのこと』(新潮社、一九五七年)は、わたしの愛読書でこれまでも何度か引用してきた。
この本には「時評的書評」という章がある。その中に「アメリカ論」と題し、二冊の本を紹介している。
初出は一九五三年七月。一九五二年四月二十八日に、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が主権を回復——それから一年ちょっと後に発表された書評である。
ヘレン・ミアズの『アメリカ人の鏡としての日本』は日本占領下の一九四八年に出た本で『アメリカの反省』(原百代訳)として出版された。版元は文藝春秋新社。一九五三年刊。二〇一五年にヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(伊藤延司訳、角川ソフィア文庫)として復刊している。キンドル版もあり。
臼井吉見は、ヘレン・ミアズの主張を次のようにまとめている。
《極東において、暴力と貪欲は、日本がそれを行った時のみ、問題になり、民主主義列強が暴力をふるい、貪欲ぶりを発揮するときには、後進地域に秩序と文明をもたらすためであり、共産主義の脅威を排撃することになる》
そして今のアメリカは、かつての日本の軍閥のような「危険な一事業」に向かっていると警告する。
たしかに、不平等条約を突きつけたり、自国に都合のいい「傀儡」政権を作ったり、自作自演の「事件」を起こしてから戦争を仕掛けたり、日本とアメリカは似たようなことをしている。
だから日本だけがわるいわけではないという話ではなく、一九四八年にアメリカでは、自国を厳しく批判する本が存在したことがすごいとおもった。日本では、それで占領期が終わってしばらくして邦訳が刊行された。
ヘレン・ミアーズは、GHQの労働諮問委員会の一員として来日した女性だが、この本はマッカーサーが「日本語訳を禁じていた」そうだ。
もう一冊は、サルトルの『アメリカ論』(サルトル全集、人文書院)で一九四五年にアメリカが日本と戦争中に書かれた訪米の感想。
サルトルがアメリカの画一主義と個人主義についてを論じていることに触れ、臼井吉見は「一時的にせよ、徳川夢声を危険視するような空気さえ出てきている今日のアメリカにも、相変らずサルトルは個人主義の現代的形式を見出しているのであろうか」と疑問を投げてかけている。
占領期、吉川英治の『宮本武蔵』の六興出版版がGHQの検閲で改変されたという有名な話があるが、徳川夢声は何で危険視されたのだろう。