2017/10/07

珍プレー・好プレー

 子どものころ、プロ野球の「珍プレー・好プレー」番組が好きだった。シーズンごとに印象に残ったエラーや乱闘、ファインプレーなどを集めて一気に見せる。
 ほとんどのプロの選手は守備範囲にきた球は堅実にアウトにする。そうした平凡なプレーが番組でとりあげられることはない。

 最近、日本の近現代史の本を手当たり次第に読んでいるのだが、しょっちゅう「珍プレー・好プレー」番組みたいな本に出くわす。

 かくいうわたしも「珍プレー・好プレー」番組のような書き方をよくしてしまう。資料を読んでいるときも、自分好みのエピソードを追いかけてしまいがちだ。

 二十代のころ、ノンフィクションライターを目指していた。当時のわたしは、まず企画ありきで取材をはじめることが多かった。しかし、取材を重ねていくうちに、企画の趣旨からずれた話がどんどん出てくる。それをそのまま書くと、わかりにくい文章になり、たいていリライトかボツになる。

「珍プレー・好プレー」にとりあげられる選手は、毎試合、エラーをしたり、ファインプレーをしたりしているわけではない。乱闘もしない。そんなことは一々説明してなくてもプロ野球ファンはわかっている。わかっていて「珍プレー・好プレー」を楽しんでいる。

 ノンフィクションや歴史の場合、そういうわけにはいかない。

 資料を読めば読むほど、自分の導きたい結論にとって不都合なデータはいくらでも出てくる。
 そうした不都合なデータを考慮していくと、いくら字数があっても足りない。で、わかりやすくするために、企画の趣旨に合わない部分をカットする。その結果、珍プレーか好プレーか、そのどちらかに偏った内容になる。そうではないものを書いてみたいのだが、その書き方がわからない。