2007/10/02

なんだか単調

 もらいものの圧力鍋でカレーを作ってみる。圧力鍋、楽だ。短時間で肉がやわらかくなる。具は、豚肉、たまねぎ、にんじん、じゃがいものよくあるカレー。あと大豆の水煮をいれる。
 まだ圧力鍋の加減がわからず、いつもより水っぽくなる。おそらく、野菜の水分のせいだろう。
 カレーを作っているあいだ、来週の「秋のまほろばの古本祭」のための古本の値付したり、パラフィンがけをしたり、中古レコード屋に売るためのCDを整理したり、風呂場で髪を切ったりしているうちに夜になる。

 原稿がまったくはかどらない。

 最近はボー・ブラメルズの『トライアングル』(一九六七年)というCDをずっと聴いている。サイケ調のフォーク・ロックの名盤。バーズが好きな人なら、気にいるとおもう。地味だけど。

 古本酒場コクテイルで飲んでいたら、インターネットの古本屋の古書桃李さんから、格安で臼井吉見の本を十冊ほど一括で売ってもらえることになった。

 すこし前に臼井吉見の『自分をつくる』(ちくま文庫)を読んで、この明治生まれのリベラルな教養人をちゃんと再評価したいとおもっていたところだった。

『自分をつくる』は、読書論が何篇か収録されている。

《すぐれた本というのは、はっきりしてますよ。時間という、偉大な批評家に合格したのが、すぐれた本です。われわれのような人間の生き身の批評家なんてものは、いい加減なもので、まちがったことばかり言ってますが、時間というのは、ごまかしがきかない。ある時期に見のがされたような、いい加減な本でも、時間という厳しい批評家の手にかかると、悪いものは必ず退けられ、いいものだけが必ず残る》(「乱読のすすめ」)

《そしてもう一つ申し上げると、できるだけ全集を読むということ、好きな作家がいたら、生涯で一冊ぐらいしか残していない小さな作家でもいいから、全部読むことが大事です。手紙も日記も皆読んでしまう。そうなると、一つの山に登ることになります。すると、もっと高い山や低い山が見えてくる。自分が山の上に立って、はじめて高い低いがはっきりわかってくる。これが読書というもので得られる、大事なことではないかと思います》(「小説ばかりが読書ではない」)

 臼井吉見は、編集者になる前は長野で学校の先生をしていて、上京したのは三十八歳のときだった。
 わたしも来月で三十八歳になる。そうです。人間、いくつになっても、新しいことに挑戦できるのです。

 とはいえ、今日も高円寺の南口の古本屋めぐりをして、本のパラフィンがけ。北口の琥珀でコーヒー。
……これといった変化なし。