2008/03/18

ないものねだり

 仕事が忙しかったり、気力が萎えていたりして、しばらく中断していたが、またぼちぼち中村光夫を読みはじめる。すこし前に『想像力について』(新潮社、一九六〇年刊)を読んだのだが、今の自分にとって考える材料の宝庫のような本だった。おかげで考えがとっちらかってしまった。
 この本の中で、中村光夫は「ないものねだり」が批評の本質だと述べている。

《文学もまた——すべての芸術と同様——「ないものねだり」から始まるのですが、そのねだる対象は、詩、小説、批評でそれぞれちがいます》(批評の使命)

 作家は現実にないものを「ねだる」が、批評家は文学にないものを「ねだる」のだそうだ。
 時とともに、これまでの文学になかったものは次々と書かれる。それでも書かれていないものがある。じゃあ、それを探すことが批評なのか。それを書くことが文学なのか。

 すこし前に「欲」のことを書いたが、そういう意味では、十代二十代のころと比べて、わたしは「ないものねだり」をしなくなってきた。充たされた生活とはいえないが、仕事がなくて食うや食わずという状況ではない。あといろいろ諦め癖がついてしまった。
「ないものねだり」も書くと、けっこう気がすんでしまう。しかし、書いても書いても、しっくりこない、言い尽くせないものも残る。それと同時に新しい「ないものねだり」が出てくる。

 自分の中で、本を読みながら、十代二十代のころのような読書の感激を味わいたいというのも「ないものねだり」だろう。自分の考えや感じ方が、一冊の本を読んで変化する。年々そういう読書は、減るいっぽうだ。活字への飢えそのものがなくなってくる。それでますます「ないものねだり」の難易度が上がる。ちょっとやそっとの名作では満足できなくなる。

 わたしが田舎から上京した理由も「ないものねだり」という言葉で説明できてしまう。田舎にはない大きな書店や古本屋のある町に住みたかった。「文学にないもの」というより、都会にあって田舎にないものをねだっていたわけだ。
 それから二十年近く東京で暮らすようになって、こんどは都会にないものに憧れる。
 失業中は仕事がほしいとおもい、仕事が忙しくなると、休みがほしくなる。
 キリがない。